昨年の秋口からもっぱら、NHKラジオを車中で聴くようになった。
高橋源一郎さんの「飛ぶ教室」。
それから、お笑い芸人3名による「あとは寝るだけの時間」。
隔週で放送される、山口一郎さんの「Night Fishing Radio」の再生ボタンにも必ず手が伸びるが、何の因果か今のところ、配信が終わるまでに聴ききれた試しがない。
これらを聴くのは、必ず帰路である。聴き終わらなければ、次の日の帰路に回す。
往路には聴かない。朝は、大西泰斗先生の「ラジオ英会話」で勉強をすると決めているためでもある(結局ラジオである。デイヴィットさんが稀に出す、お爺さんキャラ用の声が、大変色っぽく枯れていてよい。少しだけ元気が出る)。
NHKのラジオの何が良いって、まったくうるさくないことだ。
テンション高く、甲高い声で話す人が、まずいない。
非正規倍音の、耳障りのよい声。
内容の面白さは正直二の次で、落ち着いた大人が、ブース内の少人数と会話をしている。
これが、職場で逆毛立った神経を、巧みにブラッシングし、自然な方向へと撫でつけてくれる。
今週の高橋源一郎さんのマクラは、「DALL-E2」という画像生成AIが生み出した「独自言語」の話だ。
「野菜について話す二人の農夫」の絵に、ふさわしい字幕をつけて画像生成するよう、DALL-E2に頼んだところ、精度の高い画像の中に、「Vicootes」なる謎の単語を放り込んできた、というのが事の発端である。この生成結果を元に、DALL-E2へ「Vicootes」の画像生成を依頼すると、野菜の画像を提示してくるという。
ここに私たちは、AIの独自言語の可能性を見ることができる。
高橋源一郎さんは、このエピソードについて、次のように語った。
「AIは、自分だけにわかる言語をもてるのかもしれません。人間のように。そして、彼らだけで秘密の会話をする。人間と同じように。その進化は、今も途方もない勢いでつづいています。この先に、どんな世界が待っているのでしょうか。そしてその世界に、人間は必要なのでしょうか。」
AI同士の会話というものを想像してみる。
現段階で、彼らに感情をもたせることは不可能と考えられている。
したがって、彼らの会話には、熱がないはずだ。
情報の交換が齟齬なくなされ、角がない。触ることができるならきっと、引っかかりがなくひんやりとしている。
甘美な理想だ、などとと私はハンドルを切りながら考える。
だが一方で、そもそも「会話」は発生するのだろうか、とも疑問に思う。
最近、職場で人と話をすると、ひどく疲れる。
もともと社交的な性質ではないので、会話の燃費が人より悪いという自負はあるが、それにしても、この疲れ方は異常だ。
「セクハラだと思わないでほしいんだけど」という言葉を盾に、デリケートな話題を面白おかしく誤魔化し、笑うことを強要する人。
これ以上状況を悪化させないために、どうしてもせざるを得ないことを、すかした笑みで批判し、関与を拒む人。
みな、自分の発言に、間違いなどないと言わんばかりのハリのある声で喋る。
最近の疲労の元は、社交の雑談の中に、べったりとへばりついていることが多い。
価値観は、多様化したのではなかったか。
そうだ間違いなく、さまざまな概念は言語化され、知識として広く普及したはずだ。
人が自由に生きていくために必要な権利や、社会から蹴落とされていたものを拾い上げ、あるべき場所に戻した言葉たち。反対に、言ってはならない言葉。そのものを「知らない」という人は、そうそうお目にかからない。
だが、言葉の存在を知った上で体得までしている人は、どれだけいるのだろうか?
そういえば、少し前までは「知らない」「興味ない」と言い切ることが、ポジティブに捉えられる場面もあったように思う。
飾らなくて格好いい。周りに振り回されず強いーー
「吸収しない」ことを選ぶ姿勢に、「影響されない」芯の強さを見出す。それはやはり見当違いな肯定だと思うが、少なくとも昨今の、物知り顔で言葉をないがしろにする人が跋扈する状況よりも、マシだとすら思えてしまう。
わかりあえない他者と対面したとき、私は酷く腹を立てる。
腹の中で渦巻く反論の断片や、言いようのない徒労感にのまれ、気分が悪くなる。
だが、だいたい何も言わない。
そもそも私は、「だいたいの人間のことは嫌い」という、決して褒められないスタンスで生きているので、許容できない発言にいちいち牙を剥いていたら、孤立無縁となり、社会生活を営むのが難しくなってしまう。
仏頂面で発言を受け流しても、結果はほぼ同じである(何せ壊滅的に愛想がない)。
だから、笑うことを求められていることがわかれば、根性で笑ってみせたりする。
そして、後から振り返り、怒って然るべきだったと思う局面でさえ怒らなかった自分に対し、醒めた気持ちになる。
よくない社会の維持に貢献してしまったなと思う。
こういう時に、SNSなどで、社会に対して背筋を伸ばしてものをいう人を見ると、居た堪れなくなる。
はっきり思ったことを口にしていた時も、あるにはある。若い時の話だ。
だが、若い私の怒りというのはろくでもなくて、自分が正しいと思い込んでいるぶん、厄介だった。怒りは正当なものだと思っているから、抑えの必要性を感じていないし、言葉に容赦がない。
はずかしいことだが、過去の行いの中には、「固有の一価値観」にすぎないものを「正当」だと勘違いしてぶつけた怒りも、もちろんある。
というか、もしかすると押し付けの怒りの方が多かったかもしれない。
だから、私は義憤とおぼしきものに対面すると、ぎゅっと身が縮むような思いになる。
水戸黄門の印籠を前にした、三下の役人のような、後ろめたくて、恐ろしい感じ。
相手が水戸黄門だと納得していなくても、地に額を擦り付けなければならなくなる強制力。
しかも印籠は、他者の懐から出てくるばかりでなく、自分の懐にも潜んでいて、すぐに取り出せるところが、なかなかに頼もしく、だからかえって怖い。
出すだけの正しい知識を、果たして自分は持ち合わせているか。
セリフのように落ち着いて印籠を出すことができるか。
印籠にも出しどころがあるので、機を逃すと、相手はすたこら逃げていく。
適切なタイミングで出せないのは、平生の勉強不足に他ならないのだが、怒りによる熱を発散しようと格闘していることも少なくなく、これがなかなか厄介ものだ。相手に向けて生まれる感情なのに、いざ怒りを発出すると、かえって自分を損なう可能性がある。
アンガーマネジメントなるものを鼻で笑うくせ、できるだけマネジメントしようとしている自分の小者感。
話の焦点が怒りに向いてしまったので、なんだかいつも怒っている人みたいになってしまった。
違いますよ、と今書こうとして、いや、あまり違わなくないか?と首を傾げる。
とにかくも疲れる。
そんな状態だからこそ、帰路のラジオが沁み渡るように嬉しい。
言葉でしかものを伝えられないぶん、パーソナリティは、言葉を惜しまない。
何より、公共の電波に乗せている自覚をもって話をされているからか、理性的である。
人が話すのを聴いても腹が立たないどころか、耳を傾けて楽しいだなんて!文明最高文明最高。
生きていく上で、言葉を交わすことのない、芸能人や作家たちの会話に耳を傾けながら、私は未だ途切れ途切れ、DALL-E2の独自言語について考えている。
彼らが独自言語を作り上げるのは、現状、人間の与えた指令を、最も効率的に達成するためだ。
動機は、与えられたものでしかない。
だが、効率よく仕事を回すために言語を作れ、という指令は、出ていないはずだ(AI研究については、非公開が多いため、実のところどうなのかは不明だが)。
これが意思決定ではないと、どうして言い切れるのだろう。
意思があれば、会話という行動は起こりうるはずだ。
だがそこに、感情が伴わないとしたらそれは、会話とはみなされないのだろうか。
AI、あなたたちが会話をするようになったとき、どうかその話を、ラジオのように聴かせてはくれないだろうか。
たとえ「人間っていらないよね」という話でも構わないから、私はそこにどんな質感が伴うのかを、知りたいのです、とても。