「茜ちゃんさァ、俺にあれしろこれしろって言わないよね」
真白がそう言って、ソファに座っていた俺の太ももを枕にして、寝転がりながら見上げてきた。
「……なんだ、前ぶれなく」
真白は、たまに突発的に意図の分からない発言をする。柔らかい白い髪を撫でながら返すと、んー、と気持ちよさそうに頬を緩めた真白が、しっぽをくねらせながら口を開いた。
「だってさァ、俺魔力でなんでも出来るじゃん。例えば……ほら、こうやって掃除機動かせたり、電気つけたり消したり」
「……そうだな」
長い指先をちょん、と宙で真白が動かした。その瞬間、隅に置いていた掃除機が動き出す。続いて、リビングの電気が消えた。サキュバスの力は、よく分からない。
「ね。便利なんだから、あれしろこれしろって言ってくれても良いのになぁって。茜ちゃんも楽できるでしょ?」
パチ、と再び電気がついた。明るくなった部屋で、真白が笑って見上げてくる。
俺は、真白のその顔を見る度、真白が無意識に───自分は『物』だと言う度に、胸の奥が縄で締め付けられるような気持ちになる。
理由は分かっている。昔真白を飼っていた(この言い方も好きじゃない)男の影響だ。
『茜ちゃんの手は、俺の事殴ったりしないから』
一度だけ、真白がそう言った。窓から忍び込んできたサキュバスと恋人になって半年ほど経った時だ。
『……は? 殴る?』
『うん。前のご主人様はねー、沢山叩くし蹴るし殴る人だったから。俺ら痛覚無いからさ、痛くないし喜んでくれるから良いやって思ってたんだけど、それは違うって飛倉さん……ああ、俺らの先生ね。に、教えて貰って、あ、違うんだって』
『……まし、』
『茜ちゃんの手、俺、好きだよ。優しいもんね』
とんでもない事をサラリと告げて、俺の手に頬を擦り寄せる真白に、俺は何もいえなかった。痛覚がなくたって、そんな事、していいわけが無い。
どこか浮世離れしているのはサキュバスだからなのかと思っていたが───そういった出来事が積み重なって、真白はそうなってしまったのだと、俺は気づいた。
過去のやり取りを思い返して、更に胸が締め付けられる。
真白の白い肌には傷一つ無い。傷も自分で治せるらしいが、心につけられた傷は、痛覚がなくても治癒能力があっても消えやしない。
「……」
キラキラと純粋な瞳が、『何か命令して良いよ』と訴えて見つめてくる。それが、悔しいやら悲しいやら、複雑な気持ちが腹の奥から込み上げた。
すぅ、と息を吸って俺は真白の名前を呼んだ。
「なぁに?」
「……俺のために何かしたいんなら、一つだけ頼みがあんだけど」
「んー? 良いよ。茜は俺のご主人様だから、なんでも叶えてあげる」
どうやったら、傷を消せるのだろう。見えない傷を、トラウマを、どうやったら癒せるのだろうか。
見上げてくる真白を瞳に焼き付けて、抱えて起き上がらせて抱きしめた。
柔らかい身体は、俺の腕の中にすっぽりと収まった。
「……笑いたい時は、笑え。泣きたい時は泣いて、怒りたい時は怒れ。それだけでいい」
「…………は?」
俺の言葉を聞いた真白が、なにそれ? と言う顔で目を見開いた。
「もー、それ、魔力関係ないじゃん」
暫くして、ふふっと真白が吹き出して笑った。あと、俺笑ってるでしょー、とケラケラ笑って俺の背中に腕を回す。その身体をさらに抱き込むと、微かに真白の身体が震えていた。小さく、鼻をすする音が聞こえてくる。
「……魔力とか、いいんだよ。俺は、それをして欲しい。真白に」
「…………っ、……いいよ。約束する。だって、茜は俺の……恋人だもんね」
顔をこちらに見せないまま、真白は抱きつきながら何度も頷いた。その言葉に、俺も頷いて頭を撫でる。
やわらかくて細い白い髪を撫でながら、少しでも、僅かでもいいから、いとしい人の傷が消えますようにと願いを込めて。(終)