第二ボタンが欲しい、と伝えたら飛倉奏空は大きな目を見開いて、続いて首を傾げた。
「え? 俺のを?」
「他に誰がいるんだ」
「いや、そうだけど……え、何で?」
昼休みの音楽室。校庭から昼食を終えた生徒達の楽しそうな笑い声とボールを蹴る音が聞こえてくる。
そんなBGMを背中で聞きながら、足が不揃いに広がったタコ型ウインナーにフォークを刺した姿勢で固まった奏空は、意味が分からない、といった顔で楓の顔を見つめてきた。
「お前知らないのか? 第二ボタンはその人の心臓に一番近い場所にあるから、卒業式に大切な人から貰いたい、って女子が騒いでいるのを」
「なにそれ」
「言っておくが、これは嘘じゃないからな」
「これは、って。他は嘘みたいな言い方しないでよ」
水筒からお茶を注ぎ、口をつけながら奏空を見ると本当に知らないらしくケラケラと笑っていた。
笑い声が風の入り込む音楽室に響き渡る。風の音、校庭から聞こえる声、微かな雑音。その中に混じる奏空の声は、一つだけ音の周波数が違うのだろうか、美しく澄んで楓の耳に届いてきた。
柔らかく笑いながらウインナーを口に運び、卵焼きも続けて頬張っている。もぐもぐ動く口元がものすごく可愛いと思った。目を細めて観察しているとふぅ、と一息ついた奏空と目が合った。
「で、その話と、俺の第二ボタンを楓に渡すってどう繋がるの?」
「お前……、ここまで言って分からないのか」
「? うん、」
パックの林檎ジュースを飲みながらぽかんとした顔をする奏空に、はぁと盛大なため息を吐いた。相変わらず色々鈍い。鈍すぎる。
鈍く逃げ腰な彼のために、比較的正攻法で、だがあまり深く意識させない方向で行こうと思っていたのにどうも計算が狂ったようだ。自分はまだまだ兄の様にはいかないな、と複雑な感情が混ざった声で苦笑すると、更に頭にはてなマークを浮かべた奏空が楓?と不安そうに名前を呼んだ。
「えっと、楓? どうしたの……」
「いや、……自分の手の甘さに反省しただけだ。気にするな」
「そう……、あ、そうだ」
「ん?」
次の手をどうやって出そうか考えていると、ぽんと手を叩いた奏空が嬉しそうな声を上げた。
「楓に俺の渡したら、俺一年間第二ボタンなしになっちゃうし、逆に楓が卒表する時に俺に第二ボタンをくれれば良いんじゃない?」
「……は……?」
「……っはっ! もしかして、もう他の子に渡す予定、ある……?」
嬉しそうに提案したと思ったら、慌てて真っ青な顔してわたわたし始める奏空に、眼鏡の奥で目を見開いて固まってしまった。
俺の話を聞いていたのか、と言いたいのに出てきた言葉は「……予定は、ない……」という単調な言葉だけだった。
もともと楓が考えていた計画では、奏空が卒業する時に第二ボタンを受け取りたい、というものだった。確かに肝心なその部分を伝えていなかった自分にも非があるが、それにしても今この流れでその発想に至るのは、あまりにも、鈍い上に可愛いが過ぎる。
「良かった。じゃあ楓の第二ボタンは俺が先約だ」
「……っ、はは……」
「楓?」
六月特有の新緑の匂いを纏った淡く涼しい風が音楽室を満たす。奏空の柔らかい茶色の髪が、風に揺れ楓の視界をキラキラと瞬かせた。
誰かを好きになると景色が変わる、昔何かで見た事があるが本当だったらしい。
奏空に出逢って声を聞いて、歌声を知ったあの日からずっと、自分の目の前は美しく色あせることなく輝いている。
「……俺は、本当に奏空には勝てないな」
「なにそれ。俺より楓の方が強いし凄いじゃないか」
「凄いって何がだ」
「全部だよ、全部」
「…………、もう、本当に……」
鈍いくせに、真っ直ぐで。臆病なくせに、頑固で、真面目で、強い。涙もろくて、でも泣き顔も笑顔も誰よりも美しくて、可愛くて、たまらなく愛しい。
肩を揺らして笑う楓を、奏空が楽しそうに眺めながら弁当箱に入った残りの卵焼きを口に運んだ。
その後ろでは、椅子に掛けられた奏空のブレザーの第二ボタンが太陽の光に当たり、キラキラと眩しく輝いていた。