助手席に座っている男は、分かりやすいほど『俺は今、機嫌がめちゃくちゃ悪いです』というオーラを放ち窓の外を眺めていた。窓の縁に肩ひじを付いて、話しかけるなと背中が訴えてくる。
かけていたFMラジオが丁度コマーシャルに差し掛かった。気の抜ける音楽だけが車内に流れて、気まずい空気に拍車をかける。ハンドルを切った日暮茜は、ちらりとサングラス越しに隣の────絶賛機嫌が悪い恋人・野中つぐみを見た。車に乗って数十分、顔をこちらに向けない所か、彼は口も開こうとしなかった。
「……つーぐーみ」
「……」
「つぐー。つーぐーみーくーん」
ダメもとで、名前を呼んでみた。だが、呼び方を変えて何度か声をかけるが、状況は変わらなかった。それどころかつんと唇を尖らせて、つぐみは更にそっぽを向いた。
(……マジか……)
恋人の頑なな態度に、茜はこっそり溜息をつきハンドルを回した。
つぐみの機嫌が悪い理由は察しがついてる。原因は昼間、二人で出かけた先で出逢った幼いファンの子だった。
「るびれのあかねさまだっ!」
「ん?」
今日は、つぐみと少し遅めの初詣をしに浅草に行った。三が日も終わり人も少ないだろうと高をくくってロクな変装をしなかった己が悪いのだが、参拝が終わって食事をするかと路面店を見ている時に、声をかけられたのだ。
「すごいっ! ほんものだっ!」
声をかけてきたのは、自分の膝くらいしか身長のない────小さな、女の子だった。かわいらしいピンクの着物を纏い、キラキラとした瞳で見上げてくる。茜はその場で彼女と同じ目線になる様にしゃがみ、「Hello. little princess. This is Akane Higurashi.」と、つけていたマスクを指先でずらし微笑んだ。
茜の行動に更に目を輝かせた彼女は、キャアッと黄色い悲鳴を上げた。
「アンタ、こんな小さい子に英語で話すなよ」
「わり、癖なんだよなぁ、これ。────改めて、こんにちは。カラーズのお嬢さん」
「こんにちはっ」
路面店で買ったりんご飴を齧りながら、隣に立っていたつぐみが言った。その忠告通り茜が言い直すと、彼女は満面の笑みを浮かべて返事をしてくれた。
「あかねさまも、おまいり? かみさまに、ぱんぱんっておねがいごとしたの?」
「ああ。今年も最高の仲間と最高の音楽やるんで、よろしくお願いしますって」
「すごぉい!」
小さな両手を合わせて参拝のポーズを取る彼女に笑いながら答えると、テンションが上がったのかその子は更に話を続けてきた。
「わたしもね、むびょーそくさい、っておねがいしたの。あかねさまとおなじ!」
「へぇ、良い願い事だな」
手を広げて全身で感情や出来事を表現する姿に微笑ましさを感じていると、彼女の後ろから慌てた様子でこちらに走って来る二人組の男女が見えた。
「あっ! ぱぱとままだっ」
「探してたのかもな。パパ達の所、俺と一緒に行くか?」
「ううんっ。ひとりでいけるからだいじょうぶっ!」
振り返った彼女は、二人を見て手を振った。走って来る両親にぺこりと茜が頭を下げていると、彼女は再びこちらへと振り返った。
「あかねさまっ」
「ん?」
「おはなししてくれて、ありがとうっ! だいすきっ」
にっこりと笑った彼女はそう言って茜の肩に手を置き、茜の頬に口付けた。そして、茜が何か言うより先にバイバイと、手を振って両親の元へ走っていってしまった。
「…………」
最近の子供は随分とませている───海外ではキスは習慣のようなものだが、日本でされるとは思っていなかった。思わずあっけに取られていると、茜の後ろでやりとりを見守っていたつぐみが「……この、エロボーカル」と低い声でぽつりと呟いた。
その後からだ。つぐみの機嫌が悪くなって────ついには、口も聞いてくれなくなったのは。
きっかけになった出来事を思い返していると、丁度信号に差し掛かった。車を停めて、もう一度つぐみの方を見る。窓に反射するつぐみの顔はなんとも言えない表情を浮かべていて、感情が読み取れなかった。
(……どうすっかなぁ……)
信号が切り替わるのを待ちながら、茜はひとりごちた。
恋人の前で意図していないとしても、他人とキス(頬にだが)したのは申し訳ないと思っている。不快に感じる気持ちは分かるし、機嫌も悪くなって当然だ。きちんとつぐみに謝罪して、機嫌をなおして貰わなくては────そう思い、茜はもう一度つぐみの方へ顔を向けた。
「つぐ────」
そして、名前を口にした瞬間、目の前が美しい金色で覆われた。それがつぐみの髪だと気づいたのは、自分の頬になにか触れた後だった。
「……は、あ?」
「っ……信号、青になんぞ」
「……あ……ああ、悪い」
右頬が、熱い。ぽかんと目を開いたまま固まる茜を、顔中真っ赤に染めたつぐみがキッと睨みつけてくる。声をかけられたと同時に信号が切り替わり、車を発進させた。
「……随分可愛い事すんな。お前」
「っ……うっさい」
「……はいはい」
姿勢を整えて座るつぐみを横目で眺めながら、茜は熱を持つ頬を撫でた。そこは、昼間彼女が触れた場所で、つぐみがたった今、口付けた場所だ。触れているとじん、と皮膚が甘く痺れてくる。
「、……ごめん、感じ悪くて」
「謝んな。俺も悪かった……嫌な気持ちにさせて」
「別に……アンタ悪くないじゃん、あれは……」
「でも、つぐみが悲しんだのは俺のせいだろ。だから、ごめん」
「……っ」
数時間ぶりに聞く恋人の声は、鼓膜を優しく震わせてくる。しゅんと肩を下げて謝るつぐみの声に被さるように茜が口を開くと、金色の瞳を潤ませた恋人が「……別に、もう悲しんでねーし、……気にしてないから、良い……」と小さな声で呟く。
茜はその言葉を聞きながら、もう一度唇が触れた場所を撫でた。触れた感触を思い出すだけで、胸の奥がきゅうと甘く締め付けられる。愛しさが込み上げて、苦しい。
「つぐみ」
「っ……なに、」
「俺、今お前にすげーキスしたいんだけど」
「っ……!?」
止めどなく溢れてくる感情をそのまま正直に伝えると、その言葉を聞いたつぐみがボンッと全身真っ赤に染めて固まった。そして、暫くうーやあーなどの唸ったあとで、悔しそうに「っ……ほんと、このっ……エロボーカル……っ」と声を上げて茜を睨みつけてきた。(終)