「あ」
「え」
小野里詩音が声につられて振り返ると、そこには良く見知った顔があった。
立っていたのは、ふわふわと淡いグレーの髪をした人の良さそうな男だ。丸眼鏡のレンズの奥にある大きな瞳が、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。質の良さそうなキャメル色のダッフルコートが、男の顔の小ささと人の良さを更に際立ててた。
カゴを持つ手には指先だけ出す事ができるタイプの手袋が、首元には毛糸で編まれたグレーのマフラーがぐるりと何重にも巻かれ後ろでリボン結びをされている。
「こんにちは」
「こ、……ん、にち、は」
「凄い偶然だね。小野里さん、この辺に住んでるんだ?」
「……ぁ、まぁ……近く、です、はい」
(ル、ルビレの……ドラマー…………)
詩音に声をかけてきたのは、世界的に人気バンド・RUBIA Leopardのドラマーである墨染妃志だった。ニコニコと柔らかい笑顔を浮かべ、話しかけてくる。
会ったことはある。合同ライブで一度だけ。後は雑誌や響に連れていかれたコラボカフェとイベントで百回近く顔を見ているから存在はそれなり知っているーーーーが、かと言って気軽に話せるテンションの間柄では無かった。
ただでさえ、詩音は超がつくほどの人見知りだ。コミ力も無い。こんな近所のスーパーで絶妙な関係値と人間と会っても何を話せば良いのか分からない。
詩音がどもりながらなんとか返事をすると、妃志はハッと口元に手を置いて、慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。挨拶が先だったよね。あけましておめでとうございます」
「っ、あ、あっ、こちらこそ、その、おめでとう……ござ、います、」
「ふふ。今年もよろしくね」
「……っ、ああ、よろしく……」
丁寧に挨拶され、自分もつられて頭を下げた。調子が狂う。
(……てか、よろしくって……よろしくで良いのか? ライバルなんだろ、多分、俺ら)
思わず出てしまった自分の言葉を、心の中で繰り返す。
目の前で、ルビレのパフォーマンスを見た合同ライブの日。ーーーー素直に凄い、と思った。ハウロの色に染まっていた会場の空気を一瞬で塗り替えて、全て飲み込んで自分達の音で埋めつくした。
凄いと思う純粋な感情と、悔しいと思う苦さを同時に味わったのはあの日が初めてだった。
ルビレの事を嫌いでは無い。かと言って、じゃあ好きかと問われれば別に好きでもない。だから、距離感が掴めない。
頭を上げた詩音は、次に吐き出す言葉をどうしようかと考えながら妃志を見た。男の表情は相変わらずニコニコしていて、困ってしまう。
二人の間にある微妙な沈黙を破ったのは、男からだった。
「……あの、少しだけ余計なお世話してもいい、かな?」
「……は?」
大きな瞳を申し訳なさげに細めて、彼は言った。それ、と指を指されて視線をそちらに向ける。それは、自分の持っていたカゴの中に続いていた。
「みりん。値段はこっちの方が三十円高いんだけど、今買おうとしてるのより断然美味しいんだ。だから、もしこだわりとか、予算とか、そういうのが大丈夫ならこっちにした方が良いよ」
「…………へぇ……」
「昔、一人暮らししてた時にそれ使ったんだけど、なんかしっくり来なくて」
「……なら、こっちに、する。特にこだわりとか、別に無いから」
「良かったぁ。やっぱり調味料って大事だもんね」
「……そう、すね……」
棚から別のメーカーのみりんを取り出した男は、なんとも言えない表情で告げた後に、へらりと笑った。
言った通り、特にこだわりがある訳では無いので勧められたみりんを受け取り、カゴに入れていたのを元の棚にもどした。
並べ直したみりんを見て、なんだかーーーーこれで会話が終わるのは寂しいなと、思った。こんな風に思うのは、人生で初めての事だった。
「……餅、を」
「ん?」
「………母親が、餅をすげー送ってきて……色々、配ったけど、配りきれなくて……雑煮でも、作るかって、思って」
「……ああ、だからみりん」
「そう。……俺は、食えれば……別になんでもいいと思ってたけど……これで、美味いの作れんなら、……悪くないなって、」
「ふふ。うん、そうだね」
(…………なんだ、これ)
不思議な感覚だった。何故か、スラスラと言葉が出てくる。詩音の紡ぐ言葉を、男は嬉しそうに聞いて、時折うんうんと相槌を打って頷く。その返事と空気に、勝手に感じていた緊張や警戒心が解かれていく気がした。
「……だから、ありがとう、ございます。助かった」
「えへへ。僕こそ、余計なお世話にならなくて良かった」
なかなか視線を合わせられなかったが、意を決してまっすぐ目を見て礼を言うと、妃志はにっこりと笑って嬉しそうに口角を上げた。
「あ、引き止めちゃってごめんね。じゃあまたね、小野里さん」
「あぁ……、っあの、」
「?」
右手振ってその場を後にする妃志を慌てて呼び止めた。少しだけ、足が震える。
「……小野里、じゃなくていい。苗字の方が慣れてないから、呼び方、詩音で良い……」
震える足を、手をなんとか耐えて言葉を吐き出すとーーーー目の前の男は、また嬉しそうに人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「あはは、ありがとう! 僕の事も妃志で良いよ。ハウロの新曲、楽しみにしてるね」
「どうも。ルビレの新曲も、楽しみしてる」
「うんっ」
最後にぺこりと軽く頭を下げ、別れた。心臓が、少しだけ五月蝿い。なんか、凄く、楽しい。
浮き足立ったまま、詩音はカゴの中を見た。砂糖と醤油とーーーーみりん。どこにでもある調味料の数々だが、これを使った雑煮は、きっと絶対、美味しい。
(変な感じ)
言葉に表すのは難しい、こそばゆくて不思議な感覚が込み上げてくる。理解できない自分の状況に戸惑いながらも、新年のスタートにしてはなかなか良いんじゃないかと、思わずにいられなかった。(終)