(※初出:tumblr。2023.11.18転記)
公開する必要もないけどTwitterの延長線上としてのブログ更新ならまぁ公開していいか。というわけで書きます。
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先月末に一親等が急逝してから精神的ダメージが身体に出ていてジタバタ抗っている日々が続いているのですが、旧友が心配して連絡をくれまして。
友「諸々状況はどう?」
私「心臓あたりが痛くて命の危険を感じてるけど推しを象徴する食品が薬膳的にダイレクトに効く。やはり推しは健康に良い。勝てる」
友「元気じゃないんだろうけど全然元気そうで笑う」
私のこれまでを一番よく知っているだろう旧友に笑われるとは一体……と首を捻りつつ、ふと思い出しました。ここ数年、色々なところで半生を話す機会があるのですが、大体こんなことを言われるんですよ。
「小学生の頃から過酷」
「その生い立ちにしてはまとも」
「よく自殺しなかったな / 非行に走らなかったな」
「何を支えに生きてきたの?」
「メンタルがタフに過ぎる」
えっそこまで言われるほどか……? と正直まったくピンと来なかったのですが、それが私にとって“普通”だったからというだけでなく、たぶんはちゃめちゃにポジティブなんだろうな。
孤独に苛まれたあの日、風は優しく寄り添ってくれた。
悲しくて仕方なかったあの時、慰められる場所はあった。
何もなく、何もできなかったあの時、散歩はできて空の青さを知れた。
汚い言葉を浴びせられても、本やゲームの中には美しい言葉があふれていた。
呼吸すらままならなくても、ネット上なら自由だった。
傷つけられ、踏みにじられ、拒絶されようとも、手を差し伸べてくれる人はいつだっていた。
「過酷」な状況にあっても己の悦びは常に見出せたし、そういう意味では本当に孤独に陥ったことはないと思うんですよ。全然恵まれていた。「だから私は大丈夫」とどこかで確信できてたんだろうな。
それはもしかしたら、虐げている事実を無効化するためにかけられた呪いだったのかもしれない。
虐げられている事実から目をそらすために自らかけた呪いだったのかもしれない。
だからこそ傍目からは「過酷」と断ぜられる状況にも呑気に浸り続け、対処が遅れに遅れて事態を悪化させきってしまったのかもしれない。
けれどそれによって死なず、比較的まともに、しぶとく生きて来られたなら。そして苦しみから距離を取るに至れた、その力を得られたなら。それは決して悪いことではないよなぁ。なんて思っちゃう辺り、やっぱポジティブなのかもしれない。
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とは言え心臓辺りが痛いという割りとまずそうな状況を放置する気もなく。いやまぁ薬膳てことは対処してはいるんですけど。
心因性なのは間違いない。けれど悲しいという感じでもない。色々ありすぎたし「まぁこの辺だろうな」と納得できてしまっているので。
どちらかと言えば一親等の急逝と共に“時代”がひとつ終わった。ありすぎた色々に積もりに積もった感情も清算して区切りをつける必要がある。それに対する痛みと考えたほうがしっくり来るな。というのが今日時点での感覚です。
実は積もりに積もった感情は死ぬまで抱え続けるつもりだったので、ちょっと驚いてます。でも整理できるならその分余裕が生まれて新しいものを抱えられるようになるかもしれない。もうちょっと人と気楽に接することができるようになるかな。私の人間不信というか対人不安は間違いなくここに端を発しているので。
少なくとも悪いことにはならないだろうし、それでなくとも要は自分との戦いで大好物です。というわけで楽しんでやっていきます。まず人生でそう何度も発生しない一大イベント、満喫しない手はないんだよなぁ!