2024年12月、私は悩んでいた。
この世に救いなどどこにもない。救われたなんて思っていたのは幻覚だった。結局私は赤い狂気の世界で心身を苛みながら世を呪い嗤っているしかないのか。その方が皆も楽しめるのだろう、と。
そんな時だった。戦友からこのゲームをそっとお出しされたのは。
The Tulpar(タルパ)に所属する5人は、永遠の日没に包まれた何もない宇宙空間に取り残されてしまった。ここには、神の目も届かない。
Mouthwashingは、難破した宇宙貨物船、そして瀕死の危機にさらされるクルーたちの行く末を追っていく、ファーストパーソン型ホラーゲーム。
カーリー船長がこんな行動をとるなど、誰が想像できただろう?乗務員たちを当然のごとく道連れにしようとした結果、この男は自殺すらまともにできなかったのだ。四肢を失い、口も利けなくなるほどの重傷を負ったカーリー船長の運命は今、ゆっくりと迫る死を待つしかないクルーたちの手に委ねられることになる。
狂気の渦へと突き進め
飢餓、隔離、そして「お互い」という困難に向き合うクルーたちの運命を見届けよう。最も厄介なのは、言うまでもなく人間関係だ。
ナイスタイミングにも程がある。これが神のご意思か。私は数年ぶりにsteamをインストール、ログインしてこのゲームを買った。
未プレイの人に簡単に説明すると、一人称視点の探索系3Dゲームです。一本道の展開で1周3時間程度。サイコホラー的な演出と人体の内臓や器官系グロの描写、人の弱さと愚かさと哀しさ、こんな世の中に誰がした、そんな感じのものでできています。
3D酔いしやすい体質に加えて脳機能が低下しているためいまいち内容を理解しきれていませんが、以下ネタバレもりもりの感想です。
■ システム
主人公を直接操作するからこそ味わえるものがたくさんあって、ゲームの醍醐味を久しぶりに噛み締めました。特に本作は一人称視点ならではの叙述トリックのようなものもあって巧い。
いま何をすれば良いのか、どうすれば解決するのか、説明がなくてわかりづらいところは洋ゲーらしいというか、国産ゲームが手取り足取り説明しすぎだなと改めて思ったり。バグですべき行動が選べなかったりうまく発動しなかったりして何度かやり直しをする羽目になったのは御愛嬌というところか。
日本語対応はしてくれてるけど最初のメニュー画面は英語ですらないからどこで言語を切替できるかわからなかったし、切り替えてもちょいちょい直訳っぽくて意図がいまいちつかみにくかったのはゲームの評価よりはプレイヤーの慣れの問題かな。
■ ジミーの話をしたい
これは企業と社会とに魂を踏みにじられた、哀れな男の物語である。
企業のほうは言うまでもないだろう。ドブラック・ポニー運送を許すな。人材配置があまりに杜撰だし労働環境が劣悪に過ぎる。人的ミスもスタッフの故障も事故も起こって当然だ。回避するために人力輸送廃止を決定した? そっかー!(右ストレート)
たとえ食いっぱぐれようとクソ企業に己を売り渡してしまっては精肉工場の肉のように生命としての尊厳を奪われ破滅するだけなのでやめようね、というのはこのゲームにおけるひとつの教訓だが、登場人物のほとんどはそうは思えず踊らされるんだ。社会がそれを要請してきたからだよ。
強くあれ。用意された梯子をたった一人で登り詰めろ。そうして金を稼いでやっとお前は住まいを得て、伴侶を得て、子を得て、人としての幸せを手にできる。
この“呪い”が非常に強固なものであることは、冒頭におけるダイスケの言動からも伺える。文字通り致命的な事故が起きても己の身の上を案じるより先に「この窮地を突破して“成功”すればヒーローになれるかもしれない」「メディアに取り上げられて人々からの称賛を受けられるかもしれない」「女にもモテるかもしれない、やったぜ!」とくる。インターン、すなわち社会人“見習い”だからこそ無邪気に“夢”を見られているという面は少なからずあるが、だからこそ彼の言葉は社会に蔓延している“毒”を高純度で表しているとも思う。
■
そう、この世界は“成功”なくしては“幸せ”を得られない。だが一体“成功”とは何だろう。そんなゴールテープは本当に用意されているのか? テープを切ったところで、それまでの過酷な日々に見合う“幸せ”を本当に得られるのか? 答えはNOだ。スウォンジーは気づいていた。カーリーは疑問を覚え始めていた。だがジミーはそれに気づかなかった。否、気づく奇跡も地位も与えられなかった。だからこそ、副操縦士という地位に不満を抱え、船長に羨望と嫉妬を覚え、“下等な”女であるアーニャを“支配”して仮初の“強者”となって己を慰めることに腐心する。船長(代理)に就任後、“格下の”インターン生に無茶な命令を下したのもその流れだろう。
スウォンジーが彼を「ジミ“坊”」と呼んだのは極めて示唆的だ。己がなぜ“成功”を、“梯子の頂点”を求めるのか、なぜ現状をよしとできないのか、まるで理解していない。内省せず問いすらも見出さないまま企業や社会に良いように振り回されている“子ども”なのだ。その有り様は彼自身が並び立つべき、あるいは超えるべきと思っているカーリーより、無邪気に夢だけ語れるダイスケに近い。
プレイ中、何も所持していない状態でアイテム画面を開くと「からっぽ」と表示されるが、私はこれを見るたびゾッとした。ジミーの内面を糾弾しているように見えたからだ。描かれる精神世界に彼自身はどこにもいない。対話らしい対話をする相手は内面化されたカーリーと(よりによって)ポニーくらい。「たすけて」という根源的な己の悲鳴すらテレビごしに見るだけでまるで他人事だ。そうして彼は“船長”として、かつてカーリーが口にしていた言葉を、そう、言葉だけを、空虚に繰り返す。スウォンジーが「クソ食らえだ」と拒絶するのは当然だ。そうしてジミーは、恐らく彼なりに精一杯努力しながらもどんどん状況を悪化させ、本当の望みから遠ざかっていく。見方によっては滑稽劇そのものだ。そう思いつつも、私はどんどん沈痛な思いを抱えていった。
「でも、今考えれば、僕は一人で生きていくのが寂しかったのかも知れない」
――『スイートクラウン』古橋編「満たされた心」
なあ。なあジミー。お前の「たすけて」ってこれだろう? 誰かと共に生きる幸せを得たかったから、その条件として強いられた“梯子の頂上”を欲しただけだろう? 解雇通知を聞いてカーリーを「お前だけ助かる」と責めたのは一人にされるのが怖かったからだろう? アーニャに性加害を続けたのも表面上は支配欲なんだろうけど、根底には人との繋がりを求めてたんじゃなかったか?
馬鹿だな。そんなことしなくたってお前はとうに得ていたんだよ。カーリーはお前を友と呼んだ。スウォンジーはきっと神の啓示を得る前の自分をお前に見て、最期まで真摯に言葉をかけてくれた。ダイスケだって困った時お前に助けを求めた。
それにアーニャは。いやアーニャはジミーを許す必要なんて99.9%ないんだけど。0.1%の可能性を敢えて語るなら、妊娠を告げられた時、向き合い方を変えていれば、梯子の頂上なんてくだらないものを目指さなくても、スウォンジーみたくクソな世界はクソのまま、“人並みの幸せ”は得られたんじゃないか。
というのは、アーニャが8回落ちても諦めず、こんなドブラック企業の恐らくろくでもない研修を経て医療スタッフに就任してるからだよ。たぶん彼女に医療者としての資質はない。少なくとも経験が圧倒的に足りない。それでもその道を選び続けたのは、彼女が人を癒やしたい人だからではなかったか。それはもしかしたら彼女自身が誰より癒やしを必要としていた裏返しかもしれないけど。ジミーが己の弱さと向き合い、彼女に心を開けば、彼女はお前に寄り添い癒やしてくれたかもしれないんだよ。宇宙船内で強姦されたヒロインが強姦した相手と添い遂げる少女漫画だって世の中にはあるんだ『ぼくの地球を守って』って言いますそれはさておき。
でもそんなふうにはきっと思えなかったよな。だってこの世はあまりに過酷だ。企業は社会はとにかく分断を煽る。強くあれ(弱い己を否定しろ)。梯子を登り詰めろ(周りはすべて敵と思え)。そうして金を稼いで幸せを手にしろ(ただし適正な給料は支払われないものとする)。完全な袋小路です社会とポニー運送を許すな。
強いられた前提条件を達成できないまま提示された女と子というひとつの“幸せ”は、きっと幸せになんて見えなかっただろう。己の罪状を突きつけられた思いしかしなくて、怖くて、それで“皆と一緒のまま”死を求めてしまったんじゃないのか。
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最後の最後にジミーはカーリーへの親愛と敬意を示した上で訣別し「“俺”……やったんだ……」みたいなことを言うが、やめろやめろやめろ違うそうじゃないお前はそれじゃだめなんだ。靴下人形だろうとイマジナリーカーリーだろうとお前は他者との対話を繋がりを絶ってはいけないんだ。ポニーなんぞに耳を傾けるなそれは悪魔の囁きでありお前の苦しみの元凶だ。
けれど彼はポニーにこそ殉じてしまう。“孤独な船長”として“責任”を果たしてしまう。その決断には敬意を表す。いま実行しなくても目前に迫った死を待つだけだっただろうことも想像はできる。彼の行いはすべてアウトだし然るべき報いを受けるべきなのも頷ける。
けどこうも思うんだ。当たり前のことを望みながら社会に企業に絡め取られて己すら見失うなんてありふれた話で、そんなありふれた、普通の、当たり前の人が、何も得られずたった一人で冷たい死に落ちてゆく、そんな悲しいことがあっていいのかよと。
あるいはこれはすべてカーリー船長への罰なのかもしれない。彼らのすべてにひとり責任を負うのが船長の役割だ。彼はジミーの“凶行”を見逃し続けてしまった。「いるだけの役立たず」なら事故後もその前も何ら変わらないとも言える。そうして何もできないまま事の顛末から目を塞ぐことも逃げ出すことも許されず、特にアーニャは目の前で、ジミーは見ることも叶わないけどすぐそばで、死ぬのを“見届ける”しかなかったのではないか。その場合、カーリーの「審判」は先送りにされたか、有耶無耶のまま終わることになるのだろう。即時断行したジミーとの対称性が際立っている。
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と、ここまで書いたところで冒頭で記した己の悩みについて少し考えてみたい。ひとつの答えはスウォンジーが示したように思う。つまり己の心と向き合い、この世を呪いながら、最悪の結末だけは避けるべく、ご用意された梯子も幸せも唾棄しながら、「クソ」みたいな人脈と日々に甘んじる。ちっぽけな人間はそうして泥をすすりながら生きていくしかなく、だがそれによって自他を破滅させずに済む。そんなところか。
ただあれはあれでやはりタフな生き方なので、見習うのはちょっと難しい。自分の文化にもっと寄せるなら「足るを知る」「お陰様精神」と言ったところか。それなら少しはとっつきやすそうだ。
久しぶり(?)の赤い狂気の世界はやはり極めて“リアル”な世界で、未知の作品だからこそ、世界とは、社会とは、人とは、生きるとは、そういうことを考える新しい材料になって、たまには浴びたほうが良いのかもしれない。ダメージが大きくて尾を引くので本当にたまにで十分だが。あともう呪い嗤う元気もないというかひたすら悲しんでしまうようになったので、ダメージを受けてももはや面白みは提供できず意義がないかもしれないけど。
The Tulparのクルー全員に、そして世界に踏み潰された数多の魂に、どうか平安のあらんことを。