平穏を手にしてから長く居座っていた場所から去ることにした。理由は様々だが時間と体力の捻出が難しくなったことが大きい。
好きな環境で、好きなことに携われる、好きな場所だった。そこにいる人たちとも深くは付き合わなかったが心理系のプロ相手以外では初めて身の上話をし、初めて拒絶も受容も経験させてもらった。嫌いな人もいたが皆賢く穏やかで、そういう人たちに囲まれることのできる大事な場所だった。
居続けられなかった自分への落胆はあるが、こんなものだろうとも思う。去ることには慣れているし、いたい場所にこそいられない人生だったのでむしろしっくり来てしまうのだ。加えてちょうど象徴的自死をしたい欲求を抱えており、都合が良いとさえ感じている。
別れを惜しまれてもこれまでは、社交辞令に過ぎず内心では晴れがましく思っているのだろうと邪推するか、相手の心情などどうでも良く自分はやっと離れられると清々しく思うことばかりだった。もちろん今回もそういう相手もいるにはいたが、この人は本当に惜しんでくれているのだろう、ありがたいなと思えることもあり、それだけでも私がこの場から得た実りは多い。
自分も寂しいとは思えなかった辺りには、己の人間性の根深い欠落に自嘲しないでもない。いつか思えるのだろうか。思えないまま人生を終える気もする。何せトップクラスに古い記憶では、独りにされたことに安堵を覚えてしまっているのだ。加えて身体も思想も感情も、人といるとどうしても無理が発生し続ける半生で、独りでいることが安全という経験が染み込んでいる。だからきっと、私は欠落したまま生きていくしかない。
寂しいと思えなかったことに違う理由づけをするとしたら、「別に今生の別れでもないし」というところだろう。好きな場所はなくならない。少なくとも今は、賢く穏やかなあの人たちはまだそこにいる。会いたくなったらいつでも行けばいい、そう思えるような形で私を惜しんでくれる人たちに恵まれたのだ。それはもしかしたらずっと欲しかった「帰っていい場所」に近いのでは、そんなふうに考えたら少し泣いた。
あの場所で過ごした何年かは自覚しているよりずっと、かけがえのないものなのかもしれない。