(※初出:tumblr。2023.11.19転記)
高1時代の乃凪くん見たさにPSP版『エチュード』を遊んだのですが、遊ぶ前から気になることがありまして。
TAKUYOさんが旧作を移植するのはいつものことですが、『エチュード』は追加要素があまりに多い。グラフィックは塗り直し、システムは一新、BGMも総入れ替え。声優陣も交代……はシナリオが150%増(150%になったんじゃないのかと今でも目を疑ってしまう)するに当たってボイス追加するよりは最初から録り直した方が良いという判断かと思うのですが、さらに『リトルエイド』のキャラまで友情(?)出演する始末。
ここまでするなら新作を作った方が良い気がすれど、TAKUYOが選んだのはあくまでリニューアル。ならばそこに意味はあるのだろう。順当に考えれば「2006年当時の新規(リトルエイド)ファンにも『エチュード』を見てもらいたい」というところ。では『エチュード』に何があるのか。
蓋を開けてみて感じたのは、2023年現在から四半世紀ブレることのないTAKUYOの信念がそこにあった。つまり『エチュード』はTAKUYOの原点だということでした。
ならば私はTAKUYOファンだと名乗れるし、TAKUYOを応援し続けられる。さらに言えばラムソアーズとの提携も納得しかない。そんな信仰という名の妄想を出力した長文記事になります。
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本作のジャンルは「男女両視点 恋愛アドベンチャー」。ゲームを開始すると男主人公と女主人公どちらで遊ぶか……有り体に言えばギャルゲーパートと乙女ゲーパートを選ぶところから始まります。
ちょっとね、「正気か?」と思った。2023年現在だと乙女ゲーユーザーとギャルゲーユーザーは基本的な層がまったく違う。そんな2作を同居させても両方楽しめるひとは極わずかだし、場合によっては喧嘩の種になりかねません。
それ以上に、時代を先取りしすぎ感。『エチュード』初出の1998年はギャルゲー黎明期の末にして乙女ゲー夜明け前とでも言おうか、男主人公の恋愛ゲームは溢れかえっていたけど女主人公のそれは『アンジェリーク』くらいか? という年代でした。たぶん。
私の環境では当時「女主人公も選べる!」と喜んだゲームは1990年発売の『サンサーラ・ナーガ』を除けば1999年の『俺の屍を越えてゆけ』くらい。女主人公で恋愛もできるゲームとなると1999年の『フェイバリットディア』。ここまではすべてRPGで、「女主人公も選べる恋愛SLG」は2001年の『Evergreen Avenue』を待たねばなりませんでした。なのに『エチュード』はその3年も前に発売されていました。早いわ。
ちなみに、当時の私はもちろん『エチュード』の存在を知りませんでした。選べるハードがPSくらいだったのでWindowsやSSで出た『エチュード』を知れるわけなかったのですが、知っていたとしてもファンタジーしか受け付けなかった頃なので見向きもしなかったことでしょう。
余談はさておき、そんな言わば異例のゲームで、TAKUYOは何がしたかったのか。遊んで見てまず思った。「こいつ、ギャルゲーをやる気がない!」と。
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いや、ギャルゲーなんですよ。冒頭部では一人称視点でやや冷めた主人公が皮肉まじりに状況や人物を紹介する地の文が見られたり。ツンケントゲトゲした女の子が時に暴力を振るい、主人公達也くんはそれに振り回されても何とはなしのやれやれポーズで受け入れつつ相手の人格を尊重し、気づけば懐かれていて恋愛に、とかは完全なギャルゲー構文です。
でもですね。各女キャラが達也くんに向けるのは9割の信頼と1割あるかどうかといううっすらした恋愛感情。物理的接触というかスケベな要素はほぼない。
最大のポイントは佐伯悠見ちゃんでした。中学生(いわばロリ)でツインテでWin/SS版ではcvくぎゅこと釘宮理恵という最強の記号を持ちながら、言うのは「お兄ちゃん」ではなく「お姉ちゃん」(※女主人公の妹)。しかも男主人公ではなくその友達のことが好きで、EDを迎えても主人公には靡き切らない。ギャルゲーやる気がない(確信)。少なくとも迎合する気がない。
それより主人公を含めた各キャラは高校卒業を間近に控え、抱えた悩みを乗り越えるべく奮闘しており、そちらこそが主題に見えるほど。システムも進路を真面目に考え己の能力を磨き未来を掴むことが恋愛と同等かそれ以上に大事な仕組みです。そこから想定されるメッセージは「大人になりゆく少年少女へのエール」。
ギャルゲーを期待したユーザーは肩透かしだったんじゃないでしょうか。「地味」「薄い」「クソゲー」「萌えない(勃たない)」とか言ってそう。でも鮎瀬碧ちゃんが「地味とよく言われる」と言及する辺りTAKUYOその辺わかっててやったのではないか。「うるせー猿どもが! 人間は性欲以外に大事なものがあるんだよ少しは頭を働かせて生きろ!」とまで思ってたかはわかりませんが、少なくともギャルゲーというジャンルへのアンチテーゼはひしひしと感じました。
でもこれ、2023年現在の私から見れば「いつものTAKUYO」でしかないんだよな。
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特に乙女ゲーパートは完全にいつものTAKUYOでした。女主人公こと瞳ちゃんは時々パニパレの亜貴ちゃんを彷彿とさせるし、登場人物がみんな優しい。さらに先述の碧ちゃんは引っ込み思案で話し下手だけど絵を描くのが大好きで、特に空の青が好きらしいけど理由を聞けば「スイクラ古橋じゃん!!」と心が斃れ完全にいつものTAKUYOなんですよ。たぶん地味だ薄いと言われるキャラにこそTAKUYOの真髄が詰まっていて、そういう地味薄キャラに惹かれる感性には自信を持って良いのでは。ありがとうございます碧ちゃんと古橋さんと乃凪くん大好きです!
なんて私の妄想に過ぎないのではと言われたらまぁ間違いなくそうなんですが、でも今回はちょっとだけ確信も持っています。なぜなら正式タイトルが『エチュード プロローグ~揺れ動く心のかたち~」だからです。
エチュード(etude)は英語のstudyとほぼ同じ意味だそうで、勉強、練習、研究、調査辺り。語源であるラテン語のstudiumは勤勉さの他に情熱という意味もあります。音楽なら練習曲、絵なら習作や試作と訳されます。
プロローグ(prologue)は序章、序幕。ですがこの他に「エチュード」というタイトルの作品は出ていない。
以上を踏まえて考えると、この『エチュード』はTAKUYOゲーム業の第一歩(序章)であり、以降続くすべての作品がこれに連なる「エチュード」で、ならば全作品に共通するテーマがあって当然、そう考える他ありません。これまで遊んだTAKUYO作品からするとこの場合のエチュードは「挑戦作」と訳すのがいいかな。TAKUYOはいつだって変わらぬテーマを持って、体当たりでゲームを作り続けているのでしょう。
ならば私はTAKUYOファンと名乗れるし、TAKUYOを応援できる。そう思わせてくれた『エチュード』は私にとって大事な一作になったし、リトエイキャラというか乃凪くんでテコ入れしたTAKUYOの判断は大正解だったのでしょう。乃凪くんいなかったら買ってた自信ないもん。
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さて。2023年現在の視点からすれば「いつものTAKUYO」ながら、いつもとは違う要素ももちろんあります。はい、男主人公パートの存在です。
男女の異なる視点で同じ人物、同じ学校、同じ街を見ると、見え方が全然違う。逆にそれぞれの視点からしか見えないものもあって、それがすごく面白かったです。
ただ同時に思ったんだ。これがTAKUYOの原点なら、男主人公パートのない今のTAKUYOゲーは、TAKUYOが描きたいことの半分でしかないのでは?
もちろん今のゲームでも主人公が決して見られない/見てはいけないものを各キャラが持っていることは暗に示されていますし、『カエル畑・夏』では攻略対象視点パートがあり、『スイクラ』などでもちょいちょい攻略対象での視点で語られるシーンもあります。けどやはりプレイヤーが操作できる正式パートとして男主人公パートがある『エチュード』と比べると、どうしても制約はある。
女性向けゲームという枠の中に収まっているが故の仕方ない部分ではあると思います。まあたしかに私も今のTAKUYOゲーで突然キャラ達がすね毛談義とか始めたら引くし、『パニパレ』でも「よく乙女ゲーでこれをやったな」と思ったことがいくつかある。実際問題として異性の前で避ける話題はたくさんあるだろうし、そういう感覚を作品やキャラの言動に反映できるTAKUYOだからこそ信頼しているんですが(そういえば『スイクラ』でも「女性の前で」「異性の前で」とかちょこちょこ言われてましたね)。
でも創作者としては歯がゆい状況なのでは? 原点で描いた「半分」とそれがあるからこそ見える言わば「2を超えた何か」は捨てがたくない? そう考えてたら閃いてしまった。「あ、だからラムソアーズなのか」と。
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起用発表当初は何がしたかったのかまったくわからなかったのですが、『カエル畑』の小田島先生の言葉を思い出して「私の信じるTAKUYOが信じたラムソアーズを信じてみるか……」と、Switch版『スイクラ』から見守ってきました。
全楽曲を手掛けた『マネサイト』辺りから感じたのは、ラムソアの創る音はTAKUYO作品の世界を拡張する力があることでした。Switch版『スイクラ』でいよいよ狂ったのは「ファンファーレ」の力もたしかに大きかったかもしれない。鮮やかになったのは画質と音質と古橋の表情だけではなかったのだ……。
ラムソア楽曲の力とやらの源が何なのかまでは明確にわからなかったんですが、『エチュード』をやって気がついた。ラムソアーズという男性グループの奏でる音は、TAKUYOにとって失われた「男主人公パート」なのではないか、と。そういえば私は「Invitationは招待主の、ファンファーレは招待客の曲」とか言ってました。
乙女ゲーにねじ込める「男主人公パート」としては最適解の形なのかもしれない。そりゃep初手から全力でナンパするし、提携発表時のはしゃぎようと、今の全力サポート体制もうなずける。ライブで社長御自らスタッフなさっていたのは本気を感じた。
であればラムソアーズを得たTAKUYOは原点に基づいた「次の段階」に入れたと考えられ、今までできなかったこと、これからできることがいっぱい見えて作品づくりが楽しくて仕方ない時なのでは。ならもうそれだけで私は嬉しいし、これからの展開が楽しみだな~とニコニコしてます。
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と益体もないことをグダグダ考えながら勝手にTAKUYOへの好感度を上げまくった『エチュード』でした。
そのうちいつも通りキャラ雑感とか書きます。