近所で火事があった。タイミングと風向きによってはうちも延焼していたかもしれない近さだった。
火事の一部始終は見物した。いざという時にすぐ動けるよう状況を把握しておきたかったというのもあるが、それ以上に「私は見届けなくてはならない」という観念に駆られて目を離せなかった。灰色の煙は辺りに満ち、燃える建築材からは有害なガスも出ていたことだろう。家族がいたら止められ怒られていただろうなと頭をよぎり、ひとりでこれ幸いと眺め続けた。
空を焼かんとばかりに燃え上がる炎。パチパチと何かが爆ぜる音。火事現場の隣家に避難を促す人の声。やがて訪れるサイレンと消防車。一抱えほどもある太いホースからの放水。折りたたみ机が開かれ設置される対策本部。どんどん増える人。消火のためにと土足で踏み入られる建物は元・誰かの住居だ。近隣住民と思しき人が消防団員に案内されるように現場前の道を通り過ぎていく姿もあった。
火は見えなくなっても煙はしつこく残り、放水は徹底的に続けられた。だが消火完了を確信したのか、大量に詰めていた消防車は1台また1台と去り、人も減っていく。やがて本部も役目を終えたらしく、机は再び折りたたまれ何処かへ運ばれていった。残った消防団員はベテランが細やかに指示し時に褒めながら放水の経験を積ませている。そのホースも吐く水を失いへなへなと潰れて地に伏せられると、くるくると転がり巻かれて姿を消した。
煙が消えて夜が更けても何人かは現場に残って何やらしていた。さすがに眠くなったので見物はそこで終わりにしたが、翌朝も早くから団員らしき人が現場の状況を確認していて、そこまで確認できて良かったと、今この記事を書きながら改めて振り返っている。
炎を見て、恐ろしいものって美しいんだなと思った。そしてなんとなく、宗教世界で謳われる憤怒の炎、滅びの炎、浄めの炎はすべて同じものなのだろうと腑に落ちた。
ヌミノーゼという概念があるそうだ。雑にまとめると、言い知れぬ畏怖と魅惑を同時に覚える宗教的心理体験のことのようだが、あの時に見た炎に感じたのはそれだったのかもしれない。どんど焼きなど儀礼の中の大きな火は見たことがあるのに、日常の突発的な大火でやっと感じられたのは我ながら難儀なものだが、日常を破壊する火だったからこそ感じられたのかもしれない。
同時に、人類のたくましさを知った。あれだけの凄まじい炎を前に、永い経験の蓄積を知識と技術へ昇華させ、受け継ぎ、協力し合いながら、混乱らしい混乱も見せず、それどころか印象としては淡々と、対応していく。その姿に、「ああなんだ、何かあってもたくさんの人に頼ればどうってことないんじゃないか」と、そんな安心感も覚えた。「怖いから」「危ないから」と途中で見ることをやめていたら、やめさせられていたら、この心境には辿り着けなかっただろう。コミュ障なので実行にはなかなか移しづらいが。
火事は鎮圧されてもそれで終わりではない。全焼した家の無惨な姿も、延焼した家の黒く焦げた壁も、しばらく残り続けた。やがて取り壊され、土が剥き出しの更地になり、新しく家が建てられ、火事の痕跡は少しずつなくなっていき、そうしてやっと気づいた。
私はずっと、死のその先を見たかったのか。