XのTLで評判が良いので、手持ち無沙汰に任せて観てきました。良かった。
お得意様(Xの相互フォロワー各位)向けに申しますと、学生時代は「周りに人気≒not for me」だったのですが「フォロワーがハマってるならいけるだろ」と何の疑いもなく思えたことに驚きと、性癖を信用できる人たちとの縁を育めていることへのありがたさを覚えました。
なお私は途中から「こ ば し さ ん」(※『スイクラ』)と泣きながら観ておりました。いつも通りです。
さてここからが本題。観て帰ってすぐに思いつくまま書いてるので、まとまりがなさそうですがご愛嬌。普通にネタバレです。
■ 哭倉村は「昭和の因習村」なのか
TLで流れてくる感想に「昭和の因習村だった」というのをよく見かけました。
私は基本的に人里離れて生活しているので(※概念)世間の言う「因習村」をちゃんと理解できているかは怪しいのですが、哭倉村の有様は主に平成の世を通して肌身で触れてきた、そして恐らく令和の現在にも当たり前に蔓延っている現実と極めて通ずる社会だなぁと真顔で向き合ってしまいました。
警察や法は機能せず、その土地の地主が絶対的な権力を持つ。一族は特別扱いされているものの、蓋を開ければ当主(とその後継者)以外の身内はことごとく彼(ら)の喰い物に過ぎない。そうして村人全員を巻き込んで「村の秘密と恩恵」を共有し、さもひとつの生命体のようになっており、余所者という「異物」には冷酷かつ過激な感情を向けられる。はい、極めてリアルです。
入婿の克典さんが当主の座はもちろん会社の実権を握れるわけがなく、詰めどころか認識が甘すぎて引くくらいでした。ついでながら実質的後継者の乙米さんが村長にして裏鬼道でしたっけ?の頭目たる長田と不倫関係にあったっぽいのもあの社会形態なら必然、いや必要なことでしょう。
太平洋戦争でのPTSDを生々しく抱える水木、村の“因習”を厭いながらも男の手がなければ離脱できない沙代と離脱できなかった丙江なんかはたしかに昭和感を覚えましたが、これも現代でも“あるある”なんだろうな。
個人的に昭和感を強く覚えたのは、冒頭の列車での風景でした。車内では子どもが恐らく喘息で咳き込んでいるというのに、水木も含め皆がお構いなしで煙草を吸っている。私は幼少期に喘息児でかつ副流煙は当たり前の世界で生きていたため、当時を思い出してゾッとしました。良い時代になったものです。
■ 東京は「自由の象徴」なのか
水木の住む東京はまた対照的かつ複層的な描かれ方をしていて面白かったです。法や警察による治安が行き届いており、女性が働くことができる。妖怪だろうと働けるんだから、経歴を暴かれないことを示唆しています(幻術などを使ってごまかしてる可能性もありますが)。あとは野球スターに喫茶店などの華々しい娯楽でしょうか。
閉塞的なムラ社会で生きる沙代にとってはまさに夢のような世界でしょう。けれどそれも現地を知らないからこそ描ける“夢”でしかない。因習がないとは庇護がないのとニアイコールで、弱者は強者の喰い物にされる過酷な社会であり、かつ哭倉村のような豊かな自然はないどころか、開発が行き届いて公害の問題が暗に示されていました。沙代さんはもちろん時弥くんすら生きるには厳しい環境なのではないか。
沙代さんも夢は夢でしかないと認識しているようでしたが、でも気持ちはわかるし実際に東京にさえ出られれば、思い描いたようなものではないにしても違う道は開けたんだろうな。と、ド田舎の因習に苦しめられ東京に救われた女の身としては同情を禁じえませんでした。
と同時にふと思い出したのが、いつか何かの時代劇で聞いた言葉でした。
「手前の食いたいように食う、それが江戸流よ」
きっとこういうムラ社会のしがらみに耐えられず逃げ出した人の受け皿になっていたのが江戸という街であり、その歴史が今(というか作中の舞台である昭和31年)なお人々の記憶に残っていて沙代さんの発想に至った面もあるのかと思うと、2度滅び蘇った「江戸/帝都/東京」という都市へ思いを馳せたくなりました。久しぶりに『うちのトコでは』(『四国四兄弟』)でも読むかなぁ。
■ 水木と沙代、そしてゲゲゲの両親
作中では沙代さんが一番好きであの結末はやるせなかったんですが、同時に納得しかなく。と言うのも、水木も沙代も相手への愛……信頼が薄いんですよね。乙女ゲーを嗜む私は「歪愛バッドじゃん」と天を仰ぎました。
水木は自身の目的のために沙代の好意を利用しようとするところから始まり、最後まで罪悪感以上の感情は持てなかったようです。首を絞められ何もできなかったのは沙代さんの“人間離れした”膂力のせいだけではなく、そうした感情面にも由来するんだろうな。ちなみにあそこはそっと微笑み頬に触れるのが正解と私は乙女ゲーで学びました。『月影の鎖-錯乱パラノイア-』、Switch版が絶賛発売中です(宣伝)。
水木がそんなだし沙代さんも「夢は夢でしかない」と諦めているので、己が受けてきた仕打ちを知られているのでは愛されるわけがない、自分自身を見てもらえなくて当たり前と絶望し、水木の「同罪」という言葉をそのまま受け入れ、彼らと同じように憎悪と殺意とを向けてしまいます。私は沙代さんのあの首絞めは愛情表現だったと理解しているのですが(『月影の鎖』以下略)、そもそも両者が信頼関係を、愛を育めていれば、知られているとわかっても“化け物”にならずに済んだはずで、つくづく惜しまれます。
対照的だったのがゲゲゲの両親でした。父は人間を嫌悪していましたが、人間を愛する妻の影響で、少なくとも人間の未来の象徴たる子どもには期待を寄せて誠実に向き合っていました。そしてとにかく妻への愛が深い。妻のためならどんなところでも突き進むし、己の身を差し出すことも厭わない。どんなに醜く姿を変えていても愛を示して涙を流せる。父に言わせれば妻からもらった愛情で救われたからなんでしょうけど、思うに父がこういう性根だからこそ母も怨霊にならず子を、未来を守れたんじゃないでしょうか。
これが人と妖怪との差だ、綺麗事で生きられるのは人ならざる者だからだと言われてしまうとそれまでなのですが、私はそこまで割り切る必要はないと思います。だって生きるため、立身出世のために村を訪れ沙代さんを利用しようとした水木は、ゲゲ郎との交流を通して“子供だましのおとぎ話”と向き合い、見えなかったものも見えるようになり、そして時貞の誘惑に「あんた、つまんねえな」と言い切るに至ったのですから。
因習や弱肉強食、憎悪と復讐という獣性を厭い立ち向かい、他の生き方を選ぶことはできるのだと、人間・水木は身をもって教えてくれました。後は私たちひとりひとりが、どう向き合い、何を選ぶかではないでしょうか。
『ゲゲゲの謎』は愛と希望に満ち溢れた素晴らしい作品だったと、噛み締めています。
■ 二度目の死をもたらさないために
沙代さんは憎悪に負け人を殺めてしまった報いを受けたとも言えます。仕込み杖のようなものではあるものの刀に心臓を貫かれたのであればその妄念も断ち斬れたのでは、せめて後生は安らかにと刀への信仰とか沙代さんへの同情とかで(まじで全然他人事ではない)願わずにいられないのですが、100%被害者でしかなかったのは時弥くんでした。
ぽっと出であの扱い、実はモブ寄りの認識であまり感情を割いておらずほぼほぼ忘れていたのですが、彼にはきちんと“救い”が用意されたことに驚きました。いやでもそうだ、子どもって本当に儚い命で、大人の思惑であっという間に食いつぶされてしまう小さな存在なんだな。そんな彼を見逃さずきちんと労るおやじは本当に“父”であり、人の未来を愛そうとしたんだなぁ。
時弥くんは「忘れないで」と願い、「僕、ここにいるよ」と泣きました。映画館で声を出して呻きそうになった。
言い古された言葉に「人は二度死ぬ。一度目は命が尽きた時。そして二度目は人に忘れられた時だ」というものがあります。彼は血の繋がった祖父の手で命を奪われてしまいますが、二度目の死を迎えることはきっとないのでしょう。おやじはきっとずっと覚えて、ずっと悼み、彼が担うはずだった人間の未来に期待をかけ続けてくれる。そして彼の病を癒やすことのできる医学が成立した時、祝福してくれることでしょう。
■ 余談、ふたたび水木と沙代
ウラジーミル・プロップが提唱した魔法昔話のパターンに基づけば、沙代は囚われのお姫様であると同時に主人公と敵対する魔女でもありました。主人公は実力(狡賢さか誠実さ)か魔法的存在の助力で試練を解決してお姫様を救う(≒魔女を倒す)必要があるのですが、水木は普通の人間に過ぎず、またゲゲ郎の助言も聞き入れきれず、失敗したと解せます。
失敗した主人公はだいたい死ぬお約束ながら、彼はしぶとく生き残りました。ならば彼の物語はまだ終わりじゃない。昔話には三の法則というものがあります。一度目はきっとあの戦争で失敗した。恐らくの二度目はあの村で失敗した。それでも生き残った彼は今度こそ、実力と、そして忘れてなお己のどこかに残っているはずの、人ならざる友からもらった恩恵によって成功をつかみ、幸せになることでしょう。
あるいはそれをもたらすのが、友から預かった忘れ形見でしょうか。『墓場鬼太郎』観るべきか……。