9月下旬に高熱を出して以来、読書もままならない体調不良が続いていたが、ようやく年始に本格的再開に至った。電車通勤時間の暇と苦痛を至福のひとときへと戻せたことは大層ありがたく、やっと「蘇生」できたという安堵と喜びを得ている。お赤飯を炊いても良かったかもしれない。
復活一発目の読書はA・レシーノス 原訳、林家永吉 訳『マヤ神話 ポポル・ヴフ』になった。理由はいくつかあり、筆頭は我が神話こと『スイートクラウン』の解像度を上げるためだったが、2023年秋頃の『古代メキシコ展』から(厳密には2022年末に実装された『Fate Grand Order』第2部7章から)中南米の神話に触れる機会が続いていたので流れに乗じて読んでおくかなというのと、ちょうど高熱を出した時は日本文化理解のために中国古典を読んでいたので、気分を変えるために全然違う地域に関する本を読みたい、同時に自分の根幹である神話や伝説等への興味を満たしたい、というあたりが強かったと思う。
私の思う神話の面白さは、同書の後書きに記されていたこの言葉と共鳴する。
一言で言えば、『ポポル・ヴフ』は、先スペイン期のマヤの歴史・文化・信仰のすべてを理解するために、必要欠くべからざる最古の文献資料なのである。
しかし、それにも増して私どもの興味をそそるのは、その文体の特異な美しさと、マヤの宇宙観に見るその《歴史哲学》である。(略)遠い昔の古典に対する時と同様、やはり何か人間の心に普遍の共感の場のようなものの存在を感じさせる。
(P360)
本来、神話や昔話などに触れる前にはその土地の地誌、歴史、生活形態を知る必要がある。今回はそちらを怠けたため、『ポポル・ヴフ』はわからないことだらけだった。だがだからこそ、自分とはまったく異なる世界に生きる人の存在を思い知らされ、その上で手探りながら、彼らがどういった世界で、何を思い大切にしながら生きてきたのか、神話を通してそれらの一端に触れられることがたまらなく楽しかった。それは自分の「常識」とは違って新鮮だったり、引用部にも指摘されている「普遍の共感」を感じられたりして、得難い経験だった。備忘も兼ねてここにその一部を記しておく。
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まず一番印象的だったのが、傲慢を罪悪とする強い観念だ。「自分がこの偉業を成し遂げた」「この世で最も偉大な存在は自分だ」こうした素振りを見せることを咎める精神は、謙遜を美徳とする文化に生きてきた私としてはわかりやすいが、彼らはもっと容赦がない。殺されるに足る理由として扱われ、実際に英雄神や集団に即刻殺されるのだ。
さらに言えば「傲慢」とみなされる範囲が私の感覚より広いように感じた。たとえば何十人がかりで担ぎ運ばれる一本の巨木を一人で運ぶことがもう悪なのだ。そういった手合は集団で奸計にはめて殺して当然という展開なので、正直に言ってしまうと若干引いた。
だがそれで勝手に正邪をジャッジしてはいけない。なぜならこの神話は私のものではないからだ。
たとえば私と同じ国に生きる異なる民族の神話や昔話では、人間に僅かでも悪さをする素振りを見せた自然神(動植物や天候)は容赦なく殺されるのがセオリーだ。読み始めた当初こそ戸惑ったが、そこの気候や動植物の性質を知るにつれ、そういう観念で生きなければ人間(その神話や昔話を共有する民族)が滅びる可能性が十二分にあったと、部外者である私すら納得するしかなかった経験がある。当事者たちであればなおさらだろう。
以上を踏まえれば、『ポポル・ヴフ』を背景に生きる人々にとっては全体での協力が何より重要だったと察することのできる記述とみなすべきだ。それは助けを乞う時の慣用句だったのだろう「私を哀れと思ってください」という言葉、そして何より神と人との関係性、政治形態にも表れていた。
まず、原初の天意は3神の合議によって決められる。後代の英雄神も2人1組(双子らしい)だし、英雄神を再現するがごとく二君主制が布かれていた。「誰か1人(1柱)の偉業」はどこにもなかった。
神が人を創る理由は「自分たちを養ってもらうため」だし、それを叶えない「失敗作」は時に粉々に打ち砕かれ、時に洪水で流され、徹底的に滅ぼされている。そして人間が正しく神を言祝ぎ、生贄を捧げ、「神からの抱擁を求める」ほどに絶対的な信頼を寄せた時にやっと空に星が輝き、金星が昇って夜が明ける。そして神はその人間(部族)のものとなり恩恵を与え続けるという。
徹底的な互恵関係に私は面食らった。人の祈りが神の力になるとは神道やその周辺文化にもある考え方なので納得はいきやすかったが、それは人が神を「養う」行為であり義務であり、怠れば死あるのみ、反対にきちんと行えば神が人のものになるとは考えたこともない。彼らは真摯に、そして命がけで、神と共に生きてきたのだろう。
命がけと言えばもうひとつ目に止まったのが、敗北への意識の強さだ。『ポポル・ヴフ』においては「これで彼らは負けることになった」「こうして彼らは負けなかったのだ」と敗北の可否に関する言葉が多い。敗者を生贄にする文化だったようで、後半には「こうして負けたため供犠にされた」という記述も出てきた。これは神や言葉を異とする多くの民族と戦いを含めた共存をしながら生きてきた故だろうか。ついでに供犠は鹿などの動物も使われたようで、彼らが人間と動植物を区別していなかったように思える。そういえば人間はトウモロコシから生まれたのだったか。
ここまで考えると、征服民の信奉する神との相性の悪さが際立って愕然とする。征服民の神は唯一神であり、この世界のすべてを一身で創り上げたことを讃えられる絶対者だ。人は誠心、場合によっては贄も求められるがそれは人を生かす神への感謝を示す行為に過ぎず、神は人からの養いや施しが必要な存在ではない。そんなことを言ったら袋叩きにされるのではないか。加えて人と動植物は区別され、動植物は人より劣った存在とするのが一般的な理解だ。
征服民は自分たちの信奉する以外の神を悪魔と定め、「正しい」信仰を「教え」、「間違った」信仰に繋がる風習や書物はことごとく焼き棄てた。だがその土地に生きてきた彼らにとってみれば、彼らが生きるために不可欠な神を討たれ、彼らが罪悪とみなした「傲慢の悪魔」への信仰を強要されたに等しいのではないか。征服民は、その子孫たちは、この凄まじい「暴力」にどれほど気づいているだろう。
だが『ポポル・ヴフ』に生きた彼らの子孫は生きている。であれば同時に、彼らの神も滅んでいないはずなのだ。彼らとの接点を持つ人は「生きている」と指摘している。
しかし、ここに描かれているのはけっして死滅した部族の死せる神などではない。これらの神話は、アステカ族、マヤ族をはじめ、メキシコや中米の諸部族の後裔の観念や言語のなかで、今なお生き続けているのである。
(カール・タウベ 著、、藤田美砂子 訳『アステカ・マヤの神話』P2)
相反する観念を得た彼らの子孫は、内なる矛盾とどう折り合いをつけながら生きているのだろう。外国とは縁がなく現地の料理すらほとんど口にしたことがないが、もし彼らや彼らの文化に触れることがあれば、直接問いただすことはせずとも、その点の理解を深めたい、そうした心構えで向き合えればと思う。
やはり神話はめちゃくちゃに面白いのだ。