好意を受け取るって難しい

みよ
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褒め言葉を向けられるのが苦手だ。多くは社交辞令で意味のない音か、反対の意味を込められた皮肉、それ以外なら支配欲か勘違いでできていた。たまに素直に受け取って喜ぶと実は褒め返してもらうための投げかけに過ぎなかったり、謙遜という名の卑下待ちで不機嫌か嘲笑を返される。珍しく両者の意見が一致して円満にいったかと思えば第三者から僻まれ攻撃されることもあった。

だから相手が相手の都合でそう言っているだけで、自分自身には関係のない言葉なのだと割り切る。表面上だけ礼を述べて、内心で嫌悪するか秒で忘れる。そういう性格の悪いことをしてきたのだがここ数年はどう考えても純粋な好意を向けられることもあり、ちゃんと受け取らないと失礼に当たりそうだということをやっと考え始めた。

が、これがとても難しい。長年培った癖が抜けないのもそうだが、いただく褒め言葉の多くが自己評価と噛み合わないからだ。

曰く、そこにいるだけで和む。人柄が良い。まとも。気が利く。気遣いのある、優しい言葉をありがとう。知識が豊富。能力が高い。優秀。などなど。

自分で打っていて怖くなった。嘘だろ? そんなできた人間じゃない。むしろそれはすべて私に足りないものだ。私はそこにいるだけで人を不快にさせ、冷酷非情で常識がなく、何かを貶める時だけは文章力を発揮し、馬鹿で無知な人間だと、言われてきたしその通りだと思ってきた。実際どの褒め言葉も、本当にできる人はこんなものじゃなくできるのだ。

だから褒められているのに自分の至らなさを思って、思いきり落ち込んでしまう。「無いですね」と言いきってしまいたい。けれど相手の言葉を否定するわけにいかないし、まず私は卑下をやめなくてはならないのだ。そうやって自制しなくてはならないことも、自分を否定しているようで心を暗くさせた。

それでしばらく考えていたのだが。ふと、どれも自分にないものだからこそ、渇望したり、気をつけているような気がした。もしそれで人様に褒めてもらえるなら、それだけのことはできているのだと慰めにしても良いのかもしれない。「本当の自分はもっと劣悪なのに」と思うなら、その劣悪な自分を相手にぶつけずに済んでいるのだと安堵しても良いのかもしれない。

それは「本当の自分」を孤独に押し込める暴力なのかもしれないけれど。人と生きるとは、きっとそういうことでもあるのだろう。

とは言え、どれだけ気を遣った言動でもネガティブに受け取る人はいるわけで。やっぱり私としては自分自身の功績と思うより、そうして好意的に受け止めて言葉にしてくれる人に恵まれたことに感謝する方が無理がなく、結局振り出しに戻る感。受け取るって本当に難しい。

@kmgtr
薄暗い拗らせ雑記をだらだら書いている人。99%適当発言。文体は定まりません悪しからず。 X:@_akaza