ブルーアーカイブ 時計仕掛けの花のパヴァーヌ編 感想

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このシナリオのテーマは「生徒たちが極めて冷静に結論付けたことに対して、先生は何ができるのか」を突きつけるものだと感じた。多くのプレーヤーがVol.2の先生のふるまいが頼りなさ過ぎるといっているが、それは前述した理由からで、リオが独りよがりだとしても自分で決めたことに対して、先生として警告や忠告はすれど、介入しないのは先生としては正しい行動であるように思える。

ある事象に対して極めて冷静に結論付けること、すなわち明確な論理構築を前に我々は何が出来るかというのがこのシナリオのテーマだと述べたが、それに対するものとして感情(=気持ち)でどこまで戦えるのかということが裏のテーマとして流れているように思える。それはアリスを発見して部員にしてしまうこと(それに伴うデータ改ざん)、ミラーをめぐるハッキング、ネル戦でのアリスのスーパーノヴァの使い方、アヴァンギャルド君乗っ取り、アビ・エシュフに対する計算麻痺、D-ivisionによるエリドゥクラッキングと対抗策としての電源遮断による強制シャットダウンなど、緻密な論理構造の間隙を縫って論理システムをハックすることで状況が変化していく点などを振り返ると、その思いは強くなる。

それと同時に論理的な結論であれば人を試してもよいのか(=アリスが戦うように仕向けてもよいのか)、人を葬り去ることを選んでもよいのか(=アリスのヘイローを破壊してもよいのか)といった倫理的な問いもあり、そこに全面的に立ち向かう内容となっているといってよいと思う。

シナリオの中でリオは例示としてトロッコ問題を出す場面があるが、先生の指摘通り、問いの立て方が完全に間違っていると思う。すなわち、問いそのものが誤っているだけでなく、トロッコ問題を例示することによって「立てられた問いに対しては、倫理的ひっ迫や良心の呵責があったとしても答えなければならない」という本来感じる必要のない倫理的葛藤を強いるだけでなく、かつ答えを強制されるような状況に置かれることが間違っているのである。

現実のトロッコ問題における批判も同様であり、意図的に倫理的問題を現出させることで、あたかも自身の選択に倫理的危機が存在するように見せかけることこそ倫理的ではないとするものである。本来の問題点はそのような状況に陥ってしまった諸々の失敗への反省(=ゲームのプロローグ)であるはずが、偽悪的に非人道的な選択肢を選ばされ、無意味に良心の呵責を煽るような行為は「選択」ではない。さらに踏み込んで言えば彼女たちの「責任」では絶対ないし、それを「責任」と述べてしまうような欺瞞に基づいて、何らかの悲劇的な決断を迫る世界は間違っている。本来、そのような重大な倫理的な決断は段階的な社会のフィードバックと当事者達の議論によって為されるべきで、独りよがりの決断によって導かれるものではない。リオの独善性はことあるごとにゲーム開発部、ヴェリタス、C&Cのチームとしての力に敗北していくが、トロッコ問題そのものの批判的回答とも取れるかもしれない。

モモイについて語ろう。ストーリーの転換点となるのはいつも彼女である。事の始まりは彼女がシナリオライターとして行き詰まったことによるものであり、モモイはあるかどうかもわからない伝説的なゲームクリエイターの作った「G-bible」を求め、危険を冒してようやくそれ(とアリス)を手に入れる。しかしながら、苦労の果てに見つけた「G-bible」の答えがあまりにも簡潔で、モモイは落胆する。だが、その単純な答えは第2章の「友情と勇気と光のロマン」でみんなを救う鍵にもなっており、その意味でBibleと言えるのかもしれない。

ストーリーの要所要所でモモイが常にレスバに近い感情論で様々な道を打開していくが、それは「G-bible」の簡潔で身も蓋もない結論、すなわち好きだとか嫌いだとか許せないだとか、そういう生の感情が論理を超越した正しさとして機能してくれているからであり、彼女はその感情をトリガーにして、進んでいく。その側面からすれば、彼女もまた勇者なのである。そして、このように感情や愛情を大事にできるモモイは天才的なゲームプランナーの才能を持つことも暗に示しており、彼女が「G-bible」を必要としなかったのは、彼女は生得的にそれを持っているからに他ならないだろう(そもそもの話、「G-bible」の内容を必要とする人などほとんどいないだろう。だが、あの簡潔な一文を手に入れる過程そのものが「ゲームを愛する」一途な愛を成就させることへの例示にも思える)。

そして、最後のアリスとゲーム開発部のやり取りがとにかく胸に刺さるものだった。あなたがどんな生まれであっても、どんな目的を持って生まれてきたとしても、あなたはあなたの思うように生きることがすべてなのだという言葉が、アリスという存在への積み重なった疑念と懸念をすべて肯定にひっくりかえす素晴らしいものであると感じた。我々は論理的になることがどこかで大人な対応であり、正しさ(や事情を収斂させる何か)に繋がっているように感じている。しかし、論理が前に立つのではなく、自分の望むとおりに生きていく方法を実現する道具としての論理があり、また対極であるが自分の感情を大事にして、自分の道を一つ一つ積み上げていくことこそが自分の人生を生きるうえで大事なのだと強くメッセージを発してくれている。

一方で若さとは自分の感情に振り回されることでもある。しかしながら、自分の感情に振り回されているのだと感じられるようになっていく客観性が大人へと進んでいく道であり、それは根源的に振り回されるような激情に近い感情を持っていなければ成しえないことである。一連の悲劇はアリスが感情を得てしまったから生まれてしまったのかもしれない。けれど、私たちは感情から逃げえない。逃げえないなら戦うしかない、勇者のように。アリスは勇者としてその結末と戦った。彼女の「勇気」を誰を値踏みできるだろうか。

余談だが、この論理とハッキングの構造は最終編でも生きており、プレナパテスの待つアトラ・ハシースは巨大な演算処理によって侵入を防いでいるが、対抗策として同じような存在である巨大な演算処理装置であるウトナピシュテムの本船をぶつけていく(本来は敵方の兵器であったという点も指摘しておくべきだろう)。そこにアリスは自分の身を危険を晒すことが分かっていても無理を通して仲間のためにその武器を振るい、Key-ケイはたとえ自分自身の存在が消失してもアリスを救うのだという強い意志に従ってその身を犠牲にしたのである。そして最後に「論理的にはありえない」ケイのセーブデータが見つかるというのは奇跡以外の何物でもないだろう。

日常にほんの少しの奇跡を見つけるならば、そういうことである。