はたらきかた。都合の良い居場所、についての覚え書き。

madoka
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20歳の頃、ゆくゆくは自分で事業をやったり小さな組織で経営に関わってみたい、とぼんやり考えていた。

それは私が自営業の家で生まれ育ったことも影響しているだろうし、学生の頃に出会った大人たちが、軒並みユニークな生き方をしていたのも大きい。彼/彼女らから滲み出る芯の強さ、主導権を持ってしなやかに生きる姿に憧れ、「自由だけど、まあ大変なことも多いよ」と苦労を受け入れながらも笑って話す感じが、カッコよく見えたんだった。

自分も彼らのように自由な生き方を選んでいきたい。尊敬する人たちと一緒に良いものを生み出したい。そして同時に、"なにもない"自分ではなく、「オリジナル」でありたい。そう強く思っていたし、それができるなら仕事はぶっちゃけなんでもよかった。周りがすごい人ばっかりで、自分ってなんにもない人間なんだ、と落ち込んでいた時期だったから尚更、自分らしく生きる大人たちが輝いて見えたのかもしれない。

結果として今の私は、ソーシャルセクターで経営に関わるような働き方をしているので、20歳の頃ぼんやりと考えていたキャリアに対して、想像とは違う形で近づけていたなと思う。(そう。大変なことも多いけど、自分たちでルールを決められるし、あたらしい仕事に出会える機会も多いし、かなり自由にやらせてもらってると思う。大変なことも多いけど、ね。)

オリジナルであることと、社会で認められることが重なる場所。そんな自分にとって都合の良い居場所をずっと探していた。

2〜3年ぐらい前。自己表現は一つの肩書きの中で無理やりしなくてもいいし、多面的な自分を総体的に表現していけばいい。そして自分がどう表現するかということ以上に、他人の表現をどれだけ深く受け取れるかに目を向ければいい、と腑に落ちた瞬間があった。そこからは随分と、いろんなことに対して気楽に構えられるようになった気がする。

去年の夏、映画「バービー」を観た。適度に賢く、適度に抜けてて、適度に美しく、適度に個性的。気遣いもできて、ユーモアもある。そんな最適化された像にならないとダメなんじゃないかって無意識に刷り込まれていた思い込み。そんな自分に気づいてハッとした。社会に認められるってこういうことなのかしら。思わず、うるせえな、と言えた自分がいて、ホッとした。もっと、好き勝手生きればいい。そんなメッセージも映画から受け取った。

ただ、自分の中の社会っていうものは厄介で、まだまだすべてを手に入れろ、とささやいてくる。仕事、収入、家庭、生活、容姿、コミュニケーション、活動、実家、、あげていったらきりがない。今の選択だって、それなりに自由に生きているようで、おそらく最適化された自分に寄っている。ぶっちゃけ、適度に最適化されてた方が、社会の中で生きやすいし、お金やら評価やら人脈やらいろんな意味で都合が良いよなあ、などと考えてしまう。

そんなわけでここ最近はずっと、オリジナルでありたい自分と、適度に認められながら器用に生きる自分とでゆらぎ続けているような気がした。

結論もわからないままに、だらだらと書いてしまったけど、こうやって書き散らすことと、好き勝手生きていくことはつながっているような気がしているので、今年は書きながら気持ちと向き合ってみる時間をもう少し大事にしてみたいと思います。

良い意味で周りの期待を無視しつつも、もっと人や物事の良い面を見つけられるような目を持って、感じたことを素直に、ストレートに伝えていくことができたらなあ。

というわけで(?)今年もよろしくおねがいいたします。✌️