好きな言葉のひとつに「足るを知る」がある。
個人的には、写真を載せた京都にある龍安寺の「知足の蹲踞/つくばい(茶室に入る前に心身を清めるため、庭先に備えた石や岩などをくりぬいた手水鉢のこと)」がお気に入りだ。
この「知足」の由来としては、
古代中国の思想家 老子が「知足者富、強行者有志(足るを知る者は富み、努めて行う者は志有り)」という言葉を残すとともに
仏教の創始者である釈迦が残した言葉として「不知足の者は、富めりといえどもしかも貧し、知足の人は貧しといえどもしかも富めり」もある。
どのような意味か調べたものを、いくつか抜粋する。
・老子:満足することを知っている者は精神的に豊かであり、それでいて努力する者にこそ本当の志は宿っている。
・釈迦:足ることを知らない者は裕福になっても、貧しいまま。足ることを知る人は貧しくても、幸せを知っている
・欲望は無限であり、欲のままに生きた人は、幸福になれない。心が落ち着かず、常に渇望状態であり、不満な心を抱え続けなければならない。
・「身分相応に満足することを知る」という意味であり、「足りていることを知り、何事にもありがたみをもつ」ということ
・何事に対しても、“満足する”という意識を持つことで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていける。
・欲を満たすだけでは幸せになれないことに気づき、「今のままで十分足りている、幸せである」というマインドセットを持つ
つまり、
「欲が満たされることはないから、満足することを知るべきだ」という教えだ。
人間の欲望に際限はない、確かにその通りだ。
あれも欲しい、これも欲しい。もっとお金が欲しい。あの人みたいになりたい。他人から評価されたい、認められたい。
人の欲を挙げたらきりがないし、それらを満たしてもまた次の欲が出てくる。
だから、そんな欲は捨ててしまって、満足しろというのだ。
ごもっともだし、納得する教えだと感じたから
今まで「知足」という言葉を胸に刻み、
欲を抑え込んで、コントロールするように努めてきた。
自分は、どちらかというと無欲な方だし、自制心がある方だと思う。
だから「知足」をうまくやれている方だと考えていた。
しかし世の中には、自制ができない人もいる。
ギャンブルや酒など依存症となる人もいれば、痩せたいと思っても自分の食欲をコントロールできず、ダイエットができない人がたくさんいる。
これ自体はその人の生まれ持ってのパーソナリティだから、その人が甘えているとか、ダメだとか否定できるものではないだろうし
みんながみんな、欲望を制して、満足できるとは思えない。
じゃあ、そういう人たちは幸せになれないのだろうか。
そもそも、自分も何事においてもただ今の状態を満足することができているのだろうか。
そう考えると、肯定することも、否定することもできない自分がいる。
そもそも人間に「足るを知る」ことはできるのだろうか。
人の持つ欲に限界がないのであれば、真に満足することなど可能なのだろうか。
満足することはないのに、満足しろだなんて
矛盾しているではないか。
最近、そう思うようになった。
いままで自分に「知足」を言い聞かせてきたけれど、これは間違った思想なんじゃないか、とも考えるようになった。
「人間機械論」という考え方を最近知ったのだが、人間には自由意志などなく、環境に左右され、脳が自動的に下した命令に従うだけのロボットである。
人間は「精神的欲求/自己満足」が動力になるようプログラムされた機械なのだという。
この理論は、近年では科学的に立証されており、とても納得のいく筋の通った考え方であった。
そうであるならば、人間は「欲」を切り捨てることなどできないのではないか。
満たされることのない欲をただひたすらに満たすために、「自己を満たす」という欲求をエネルギーにしているのであれば、
その欲求を無くしてしまうと人は生きられない。
満足した時点で動力を失い、動かなくなるのではないだろうか。
つまり、生きている限り、欲求は無くならないし、真に満足することはできないのだ。
と、ここまで考えて一つの結論に至った。
それは老子や釈迦が唱えた「知足」の教えが間違っていたのではなく、
単に「知足」に対する自分の解釈が間違っていたのだろう。
おそらく、
欲を捨てろ、だとか、現状に満足しろ、などと根性論的な教えではないのだろう。
お前は欲深すぎる!!もっと満足することを知れ!!
という叱責の言葉ではなかったのだと思う。
「知足」という言葉は、
欲が満たされ、十分に足りた状態などは、存在しない。
人は欲を原動力にして生きており、人から欲を切り離すことはできない。
自分も他人も、皆満足することなど不可能だ。
「私は満足してます」と自分に言い聞かせなくていい。
「知足」とは、
「足る(満ち足りた、不足のない、完璧な)」状態は存在しないことを「知る」ことなのだと。
生きている限り、自分の意志に関係なく湧き出てくる「欲」は、
ごく自然なものであり、
人がコントロールできるものではないと捉え、
それは生涯、何をしても満たされることのないものなのだと理解する。
そして、
ただただ、湧き上がってきた「欲」をあるがままに受け止める。
「欲」は人間という機械の動力なのだから、
満たすために行動すること自体は、悪いことではない。
正しい、間違っている、という概念ではない。
「強欲は罪であり、罰すべきもの」と考えてはいけない。
無欲な人が優れている、偉いわけではない。
ただ、それは決して満たされることはないものなのだと理解する必要がある。
満たすために「欲」と向き合ってはいけない。
「欲」の奴隷になってはいけない。
絶対に満たされることのないものとして「欲」と向き合わなければいけないのだ。
それこそが「足るを知る」なのだろう。
龍安寺には、有名な枯山水の石庭がある。
15個の石が散らばっているのだが、
これらはどの角度から見ても、一度に14個しか見えないように
絶妙な配置となっている。
一度だけ足を運んだことがあるが、
何度場所を変えようと、15個の石の全容を見ることはできなかった。
15個という数字には意味がある。
普段は欠けている月が、満ちた丸い「満月」となる十五夜は、お月見の日として知られているが
15は満ち足りた、完璧な状態を表す数字だ。
龍安寺は、
「吾唯足知」のつくばいに刻まれた言葉と、15個の石を同時に見ることができない石庭の二つで
「足る」状態は存在しないのだと、見ることはできないのだと、教えてくれているのだろう。
こばん