記憶というものは、どれだけ薄らいでいても、必ず己の地盤になっているのだと思う。ときに支え、ときに震えながら、降り注ぐものを受け止め吸い込む。
中学時代の記憶として真っ先に出てくるのは、部活終わりの冬の夕暮れだ。しばらくそれに心を浸らせていると、無責任な楽しさとセンチメンタルの底から、ふつふつと嫌悪が出てくる。だから、べっこう飴のような光を掬うと、私はそこを後にする。
あの三年間は、なかったことにしたっていい。ただ、毎日自尊心に擦過傷がつけられるだけの日々だった。
具体的なことは言えない。言いたくないわけではなく、単に脳の奥底に沈んだだけだ。そしてすっかり固まってしまった。もうどれだけ引っ掻き回されても舞い上がらない。
それらは腐敗しつつあり、時折ぽこぽこと音を立てたりする。不快な香りを漂わせ、街なかの笑い声を、部屋の隅の内緒話を、疑い深くする。
逆にいえば、ただそれだけなのだ。私を揶揄した者の顔も、あらぬ噂を吹聴した者の声も、権力で抑えつけた者の香りも、もう思い出せやしない。わざわざ自分を害するもののそばに寄る必要はないので、思い出すきっかけさえも生まれない。ただ、分解され、養分となるだけ。
昔の私が「恨み続けよ。そしていつか奪い尽くせ」と叫んでいた。今の私は「忘れ続けよ。それはいずれ糧となる」とささやく。振り返るほど、面白い過去ではないから。振り返れるほど、退屈なときではないから。