自ら命を絶つ子供が増えているそうだ。
正直、口先だけのきれいごとは書く気にならない。自分も昔はそうだったからだ。
生きるのが嫌だった理由は簡単である。学校でいじめられていたからだ。大人が仕事に行くように、子供は学校に行かなければならなかったので、自分にとって生きることは(学校に行って)いじめられることだった。つまり、生きるとはひたすら苦痛に耐え続けることなのだ。更に読書をある教師から批判され、もう生きていきたくないなあと思いながら本を読んでいた(教師の言葉でやめる子供ではなかった)。読書は逃避を通り過ぎて、飲み食いのようになっていた。
当時、自分が浴びるように読んでいた本の中に、スウェデンボルグの霊界日記があった。抄訳の、あまり厚くない文庫だった。近々行くかもしれない向こう側は一体どうなっているのだろう。しかしその本には恐るべきことが書いてあった。
『霊界にも学校がある。』
ショックだった。とりあえず自分は死ぬのをやめた。
しかし、死ぬのをやめたからといって愉しく生きられるわけではない。無視や嘲りは相変わらず続き、いじめは本好きな自分の自己責任だという教師の声も変わらなかった。学校に行ったり休んだりしながら、自分は地元で最も偏差値の高い高校に願書を出した。国語の模試は全国トップクラスだった。ある先生がそれを見て謝罪してきたが、自分は無反応だった。そろそろ脳か心のどこかが本格的におかしくなっていた。
その高校にはなぜか合格したのだが、けっきょく2日しか行かなかった。ああ勿体ない。しかし当時の自分は限界だったのだ。
その後、自分は長く社会不安障害や強迫性障害で苦しんだ。将来が不安だったが周囲の大人は取り合わなかった。そろそろ死ぬか、という気持ちになってもおかしくない状況である。
そんなことを考え始めたとき、自室の本棚が眼に入った。
「まだ読んでいない本が結構あるな」
そう思った。そこで、その本のうちの数冊を、表紙が見えるように並べ直した。手段はともかく全部読んだら死ぬつもりだった。
しかし、なかなか上手くいかなかった。その数冊を読み終える前に別の本も読みたくなった。どういうわけか新しい本を買ってしまった。クッキーの缶をもらうと、それを食べるまでは生きるかという気持ちになった。気がつくと、ただ次に読む本をディスプレイするだけの人間になっていた。
今も人生のすべてが輝かしく、希望に満ち、将来の不安が0なわけではない。それでも昔のようなことは考えなくなった。人間なんてほうっておけばいつか死ぬのだ。流星群も彗星も幽霊もUFOもUMAも見られないかもしれないが、死ぬことだけは絶対である。それなのに焦ることもないだろう。この秋また蔵書が増えてしまったし。
自分は本に生かされている。
2025/11/01
Kohana