幽霊の話は結構好きなのだが、自分で霊を見たことはない。
祖母は見たことがあるらしい。雪の夜、誰かがしきりに窓を叩くので開けてみると(物騒な気がするが半世紀以上前の田舎の話である)髪の長い少女がぽつんとひとり立っていた。うつむいているので顔は見えない。誰? と訊くとその子はすうっと消えてしまった。
親友が事故で急死したと知らされたのは翌日だった。彼女の髪は肩ほどまでしかなかったが、長い髪に憧れていて、来年の冬までに伸ばしたいと言っていた。親友が最後に会いに来てくれたのだと祖母は信じた。
霊を見たことのない自分だが、音は聞いたことがある。
当時、自分は猫を亡くしたばかりだった。元気いっぱいの白い雄で、スーパーの駐車場に棄てられていた処を母が保護したのだ。最後は病気で弱り切り、赤ちゃんのように小さくなって死んでいった。ずっと横になっていたのに息を引き取る直前に身体を起こし、ゆっくりとあたりを見回したのが不思議だった。
猫のいない生活にはなかなか慣れなかった。その日はよく晴れた日曜で、家族は全員出掛けていた。自分は部屋で机に向かい、数学の問題を解いていた。数学の面白さに目覚めかけ、もしかしたら自分には理系の才能があるのかもしれないと信じかけていたのだ。しかし成績の方は先生が面白がるくらい見事に上がらなかったので、あれは何かの間違いだったのだと今は思っている。
まだ過ちに気づかなかった自分は真剣に問題に取り組んでいた。鉛筆の先が紙をこする音や樹々のざわめきに混じって、階段のほうで物音がした。なにかが威勢よく上ったり降りたり飛び跳ねたりしている。数字や記号や公式で頭がいっぱいの自分は猫が死んだことを忘れていた。またあの子が遊んでいる。階段を上ったり降りたりして、何がそんなに楽しいんだろう。
それから答え合わせをし、次のページに取りかかろうとして気がついた。猫はもういないのだ。
念のためすべての部屋を見て回ったが、窓は全部閉まっていた。あの子が遊びに来たのだと思った。
そして昨日の夜の話だ。
うたた寝から起きた自分は入浴を済ませ、コーヒーを飲みながら、長く悩んでいたことにけりをつけようと考えていた。日記にそのことを書いた。動き出すのは抜歯の後になりそうだ。
日記帳を閉じると同時にきつい、化粧品のような匂いがした。
なんだろう、最近嗅いだことのない、でも懐かしい匂いだ。そうだ、父の整髪料の匂いに似ている。でも出所がわからない。
自分着ているガウンやパジャマ、まだ湿ったままの髪の匂いを確認したがどれも違う。匂いは数分で消えてしまった。
それから少し本を読んで眠り、起き出して今これを書いている。
霊は匂いでメッセージを知らせることがあると言われている。もしそれが本当だとすると、あの匂いは父からの激励だったのだろうか。いや、もしかしたら早く髪を乾かしなさいとか、そんな時間にコーヒーを飲むと眠れなくなるぞと言いたかったのかもしれない。
超常現象を一切信じなかった父は、こんなことを考えている娘をどう思うだろうか。
2026/02/01
Kohana