自分は自己肯定感が高い方だ。
と特に考えたことはなかったが、どうもそうらしいとわかってきた。
たとえば自分はすぐ謝る人の気持ちが理解できない。特にネットでひたすらすみません、ごめんなさいと連投している人を見ると、そんなに申し訳ないなら本人に謝るとか、次からは同じ失敗をしないように気をつければいいじゃんと思ってしまう。こう書くとただの無神経な人間である。
自分の自己肯定感が高いんじゃないか、と感じた最も大きな理由は、父の遺影である。葬儀に使う大判のもののほかに、小さい額入りの写真を作ってもらい、今も棚の上に飾っている。記念撮影の一部を引き延ばしたもので、父はうすく微笑んでいるように見える。自分には。
しかし、他人にとってはそうではないらしい。家族は「無表情だ、少なくとも笑っているようには見えない、どちらかというと怒っているように見える」と言う。
自分には、普段は「今日の調子はどうだ」と笑っているように見えるし、いいことがあれば「よかったな、おめでとう」と言ってるように見える。失敗したときには「だめだなあ、次からちゃんとしなさい」と、やっぱり笑っているように見えるのだが。
こんなふうに都合よく見えるのは、自己肯定感が高いからなんじゃないか。
しかし、その理由がよくわからない。自己肯定感を上げる努力をしたことなんて一度もない。ネットや雑誌でたまたまそうした記事と見ると、わざとらしくて気持ちが悪いと思ってしまうほうだ。
自己肯定感を高めるには親の愛情が大事だ、とよく言われる。確かに自分は両親にかわいがってもらったが、ふたりともけっして完璧な親ではなかった。共働きだったから、小学校に上がる前は親の知り合いの家を数ヶ月おきに転々としていた。その後、やっと受け入れ先の保育園が見つかったが、親の帰りが遅いため、延長保育になることも少なくなかった。常識的に考えれば自己肯定感はどん底確定である。
しかし、実際にはそんな風にはならなかった。短い間預かってもらった母の知り合いの家は、庭に大きな木が立っていて、その周りに野の花がたくさん咲いていた。小さい自分は心地よいひだまりの中でいっしんに花を摘んで過ごしていた。預けられているから不幸だとか、寂しいといった気持ちはなかった。
延長保育は絵本を1冊余計に読んで貰えたし、おやつも出たので得をした気分だった。外が暗くなってくると、このまま保育園に泊まれるみたいでわくわくした。
でももちろん、こうした気持ちは親が必ず迎えに来てくれるという安心感があってこそだ。ガラス張りの引き戸がガラッと開いて母が姿を現し、ぱっと顔を輝かせて「おそくなってごめんね、帰ろう!」という時が一番嬉しかった。
そのあと、寒い道ばたで母と一緒に父の車を、「あと何台で来るかな」と数えながら待つのも楽しかった。でもやっぱり一番嬉しかったのは、見慣れた銀色の車が止まってドアが開き、父が「ほら、乗って、帰るぞ」と笑顔で言うときだった。
当時はまだ両親がフルタイムで働く家庭は少なかった。専業主婦の家庭に比べれば、母親といられる時間は圧倒的に少なかった。それでも両親を信頼できたのは、あのお迎えの時の「やっと会えた!」という笑顔のおかげだと思っている。
父の遺影がいつも微笑んで見えるのも、もしかして自分の自己肯定感が高いのも、この思い出が人生の土台になっているからかもしれない。
2025/10/07
Kohana