数年前までは徒歩圏内に古本屋があった。だから月に1度はそこに通っていた。覗くのは主に100円から200円均一のワゴンだった。そこでタイトルはもちろん、著者も知らない本を数冊ジャケ買いするのが好きだった。ワゴンの本の中には縁がぼろぼろにすり切れたものもあって、それが好みだったのだ。買った本は予備の大きなショッピングバッグに入れて、目をつぶって手を突っ込み、取りだしたものから読んでいた。
中学の頃は図書室に入り浸っていたが、このときもお気に入りは、廃棄寸前の本の詰まった棚だった。その木の棚の手前には、古くはないが誰も借りない文学全集の棚が置かれていた。昼休みになるとそのふたつの棚の間に潜り込み、表紙の外れかけた江戸川乱歩や今の基準ではあまりかわいくない表紙絵のペニーパーカー、古い版の岩波少年文庫と、緑の表紙の文学全集を交互に読みふけった。
つまり、自分は古い本や見捨てられた本、全く知らない作品や、誰も見向きもしないような本が好きなのだ。今もネットの古書店や定額サービスで、タイトルだけで選んで読むことが多い。そして、所謂ベストセラーやなんとか賞受賞作品には興味がない。たとえば書店に行って、入ってすぐの棚にまあたらしい本が平積みにされ、ポップと貼り紙と帯で、この本が如何に売れていて、どんな素晴らしい賞を取っていて、ネットでも話題になっており、有名人も愛読していると言った! じっさい当店でも一番の売れ行きである! 泣ける! 感動! 必読!! などと訴えていると、それだけで興味を失ってしまう。そしてその前を素通りして、好きなジャンルの売り場に行き、ひっそりと並んでいる本から数冊買って帰ってくる。我ながら損というか、世間の盛り上がりに乗れない、嫌なタイプの人間だなあと思う。
別に好き好んで、あるいは所謂逆張りでこうした行動を取っているのではない。本もまた商品であり、それを買うことによって作家や出版社で働く人たちが生活し、出版業界そのものも成長してゆくのだ、ということもわかっている。でも、あまりにも“商品”や“流行”を前に出されると、本というもののまとう魔法を打ち消してしまうような気がする。量産され、お金を出して買ったとしても、本はやはり居ながらにして読者を遠くに連れて行ってくれる魔法の道具だ。商品の部分が強調されると魔法の部分が薄れてしまう。もっとわかりやすく言うと、読む前にしらけてしまうのだ。こんな人間は少数派なのかもしれないが。
もちろん自分も出版文化を応援したい気持ちは大いにあるので、これは、と思うものは新刊で買うようにしている(だから新刊情報は必要なのだ)。そして古本も、絶版で入手困難なものを、定価の数倍出して買うことがかなりある。
2300円の本を200円で買ったり、1800円だった本を10000円で買ったりしながら、この一部が著者や出版社に還元されればいいのに、といつも思っている。
2025/11/07
Kohana