昔の自分はけっこう女らしかった。
当時の自分は女らしいものを着て女らしい雑貨に囲まれ、女らしい本を読んでいた。具体的に書くと森ガールっぽい服とかこまごまとしたシールで飾ったノートとか、癒やし要素の入ったお話などである。
しかし実は自分はレトロフューチャーっぽいものも好きだった。古いSFや薄暗い幻想文学も大量に読んでいた。こっちの方が本命なのだ、ということはずっとわかっていた。
そしてコロナがやってきた。親が所謂高リスク群だったこともあり、自分は外出を極力減らした。他人と会わなくても特に不自由を感じなかった。ひとりでのびのび本を読んだりものを書いたり、語学の勉強をしたり海外のニュースを見たりして過ごしていた。
当時、コロナはまだまだ未知の、恐ろしい病気だった。自分だってうっかり罹患して死ぬかもしれないと本気で考え、好きな本を読み返したり、読みそびれていた本を買って読んだりした。ふしぎな虫たちの国、五次元世界の冒険、大預言者カルキ、復活の日、犬神家の一族、宇宙から来た少年、ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを、マーティン・ドレスラーの夢などである。女らしくない。
ひとりで好きなことだけしているうちに、自分は所謂女らしい人間じゃなかったんだなと気がついた。
ここからが面倒なのだが、かといって性別に違和感があるとか同性愛者であるとか、スカートなんて一切履きたくないというわけではない。ただ、女(の子)っぽいとされる属性を演じるのがものすごくしんどい、ということに気がついたのだ。
たとえばやさしいとか何にでもよく気がつくとか、小さなものを愛でたがるとか繊細だとか、そういうものである。なぜ自分がわざわざそうした属性を演じていたのかもわかった。病気で何もできなかった頃に、かよわさで身を守ることを覚えたのだ。
しかし、かよわさという属性は、そこそこ健康になった自分には却って重く、しんどかった。病気が治って社会復帰したあと、いつもどうしてこんなにしんどいのかと不思議だったのだが、なんのことはない、かよわさの鎧を棄てなかったのが原因だったのだ。鎧の破れ目からかわいやかよわさの欠片もないSFや幻想怪奇、重たい文学作品がぼろぼろこぼれていたのだからもっと早く気づいても良かったのである。
その後、しばらくの間女らしさと無縁の生活を送ってきたのだが、この冬の初めに、昔使っていたライティングビューローで日記をつけ始めた。ヴァージニア・リー・バートンのダイアリーを使い始め、そのそのダイアリーに貼るシールまで購入した。その一方で今も大きな宇宙柄のカップでコーヒーを飲んでいる。
最近考えるのは、女らしさと弱さが一体になったのはいつからだろうかということだ。日本では文学少女といえば繊細で病弱なイメージがあるが、海外の物語の文学少女はみな勝ち気で我が強い。少し前に読んだ『戦争は女の顔をしていない』の少女たちは野の花を愛でたり空き時間に刺繍を楽しんだりしながら戦場でいさましく戦っていた。かわいいものが好きだからって弱くある必要はないはずだ。
性別違和などに苦しむ人から見れば自分の悩みなど悩みと言うほどのものでもないが、自分も長い時間をかけて、自分なりの女らしさの落とし処を探ってゆくのだろうなと思う。
2026/01/27
Kohana