抜歯をした。歯列矯正のためでも親知らずでもない。昔根管治療をした歯がクラウンの下で虫歯になり、気がつかないうちに根に達していたのだ。上の歯の部分はもう残っていない。残った根だけを抜くのである。
ネットによると、虫歯で弱った歯の抜歯は比較的簡単らしい。だから自分は安心していた。安心しつつもレトルトのおかゆやインスタントのスープを買い込み、ほかのことをあれこれ心配していたが、抜歯はどうにかなるだろうと考えていた。もっとも直前になると麻酔が効かなかったらどうしようとか何かの間違いで死んでしまったらどうしようとか、そういいえば今日はアルテミス2ロケットの燃料注入が始まる日ではないかとか、来世は地球人が植民した火星に生まれたいとか考えていた。待合室で。
容赦なく名前が呼ばれ、治療室に入る。まずは表面麻酔だ。抜くのは右上の奥、第七臼歯と呼ばれる歯である。もちろん表面麻酔だけで抜歯ができるはずがない。しばらくしてから先生が、その残った根のあたりに針のようなものを刺した。最初のものは麻酔のための麻酔だったのか。痛みはないが熱感と疼きがある。
いよいよ抜歯である。しかしなかなかうまくいかない。先生も苦心しているようだ。直接見ることはできないが、細い棒を使い、てこの原理で取り出そうとしているのだろうか。すごい力だ。こちらの顔も押されてだんだんずれてくる。棒で唇の端が引っ張られてそこだけが痛い。
どうも抜けないようだ。先生は根の周りを少し削った。痛みはないが、骨の焦げる匂いがする。あの高い音も神経に障る。削ってはこじり、けずってはこじりと繰り返しているらしい。しかし抜けない。あまり強く押されると顎が砕けるんじゃないかと思う。こんなにしっかりしている根なら抜かなくても良かったんじゃないか、素人の自分はついそんなことを考えてしまう。
何度かぼろっと口の中で何かが砕ける感じがあった。舌に細かいくずのようなものが触れる。根のかけらだろうか。それからふっと口の中が軽くなった。抜けたと思った。でもまだ奥に何かが残っているようで、先生は苦労してその残りを取り出していた。
「レーザー」と先生がいい、ゴーグルをつけられた。かちかちと断続的な音がして、そのたびにさっきとは比べものにならないくらい強烈な骨の焦げる匂いが口の中に満ちた。
「はい、終わりです」
口をすすぎ、綿を噛んだところで抜いた歯を見せてもらった。血に赤く染まった根は二つに割れ、片方は小さな球根のように丸っこく、下の方から細い鈎状のひげ根のようなものが突き出ていた。もう片方はひと回り小さないびつな塊で、どちらもふつうに想像する歯の根とはかなり違う。虫歯で溶けた根が周囲の骨とくっついてしいたらしい。だから抜きにくかったのだ。
支払いと次の予約を済ませ、近くの薬局で薬を買って帰宅した。医療費からも難抜歯だったのがわかる。
アイスとおかゆを食べ、抗生剤と痛み止めを飲む。もしかしてものすごく腫れて寝込むかもしれない。おかゆやスープを買っておいて良かったと思った。
しかしたいした痛みは出なかった。素人が見てわかるような腫れもない。歯の痛みより薬を飲んだ後の胃のほうがつらい。食事も予想よりはやく元に戻せそうだ。
ともかく無事に抜けて良かった。
2026/02/03
Kohana