本当の自分という言葉に十代の頃からとらわれている。
最初に意識したのは小学校高学年の頃だったので、かなり早い。つまり、本ばかり読んで自意識過剰な、ませた子供だったのだ。
今ここにないものを本物だと信じて追い求めるのは子供っぽい、厨二病的な行動だ。今の自分はそう思う。そう思いつつ本当の自分をどこかで求めていて、今もうっすら厨二病だ。
しかし、いつの間にか世界がその厨二病になっていた。
たとえば今の日本は間違いで、本当の日本は失われてしまった。それを取り戻そうという話がある。
正直、その人たちの理想とする日本に心惹かれないわけではない。お父さんとお母さんがいて、手作りのご飯が食卓に並んでコミュニティがしっかりしていて、悪いことをすれば叱ってもらえて、家に帰ればお帰りと言ってくれる人がいる。子供には理想的だ。
でも自分はもう子供ではないし、結婚する気はないし、人付き合いは苦手である。この本来の日本は、今の自分には都合が悪いようだ。なによりその“本当の日本”は過去の素敵っぽい部分を寄せ集めたもので、所謂思い出補正の掛かった記憶に近い。
やっぱり本当の何かを求める行為はは子供っぽいのだ。
などと考えていたら、欧米まで似たようなことをやり出した。みんな自分の国が自分の国らしくなくなったこと、生活が苦しくなったことを嘆いており、それを、例えば移民など一部の人たちのせいにしている。そうした人は排除して、本当だった頃に戻りたいと思っている。
らしさがなくなったのはつまらないよな、と自分も思う。イギリス人は皮肉屋でおいしい紅茶にこだわり、フランス人はおしゃれで香水の香りをふりまきながら議論をし、イタリア人いつも陽気でパスタとピザを食べていて、アメリカにいけば地平線の向こうまでまっすぐ道が通っていて、時々見える小さな町にダイナーとかホットドッグスタンドがあって欲しい。
もちろんこれは東洋の島国に住む無責任な人間の持つステレオタイプである。世界は変化しており、多様性は大切で、そもそも自分のイメージそのものが間違いだらけなのだ。
自分の国のらしさを失いたくない、という人は思うより大勢いた。でも、それも思い出補正のかかったつぎはぎのイメージにすぎない。現実を見ないのはやっぱり子供っぽいことなのだ。そう読んだし、そう教えられたし、そう思ってきた。
ところで今、フランスのデモが暴動に発展している。自分は一応フランス語の勉強をしており、子供の頃好きだったセギュール夫人のブロンディーヌの原書をどうにか読んだり、青髯の原書に昔読んだ抄訳そのままの表現を見つけて感動したりしている。父のお土産のリモージュ焼きの小箱はなくしてしまったが、ずっと本棚に飾っていた。だから落ち着かなくて空き時間にニュースやSNSの投稿をチェックしている。
そんな中で目についたのは、この暴動を起こしているのは本来のデモの参加者ではない、という声だった。これは本来のデモではないとか、昔は違ったという投稿もあった。自分の印象だが、どれも本当の日本とか、本来の文化といった理想に批判的な人によるものだった。
きっとその人たちには理想とするデモがあるのだ。その範囲内なら多少暴れたってよかったのだ。過去に自分はそんなデモを懐かしんだり賞賛したりする文を読み、これが文化の違いなのかと感心したりしていた。それが今回は盛り上がりすぎて、あらぬ方向にいってしまったということなんだろうか。
やっぱりみんな、ほんとうのなにかを求めているんだ。本当の私、本当の私たちの国、本当の社会運動。
でも、いくら本当でも本来でもないといっても私は私だし、変化は起きてしまったのだし、移民と呼ばれる人たちはたしかにいる。略奪や、取り返しのつかない破壊も実際に起きてしまった。それをほんとうじゃないといっても始まらない。あなたの本当は嘘だけど自分の本当は事実なんだ、というのもなんだか変だ。
でもみんな、今ここにはないどこかにある、本当や本来のものを探している。
2026/10/19
Kohana