今月初頭にほぼ日手帳を買った。残り日数が足りないため、かなり安くなっていた。それをポイントで入手したので、正確には引き換えたというかんじだった。
最初は手書きなんて鬱陶しかったのが、すぐに癖になってしまった。今は毎日、デイリーページいっぱいにペンであれこれ書いている。テーマは特に決めていない。その日起きたこと、嫌だったこと、嬉しかったこと、それに関連して思い出した昔のこと、たった今思いついたことなど、様々というか適当である。最近よくいうジャーナリングだ。そのジャーナリングで変わったことを書いてみる。
まず、字が上手くなった。正確には昔の文字が戻ってきた。実はここ数年、手書きで文字を書く習慣がなくなり、たまにする署名の文字がガタガタになっていた。肩こりのせいだとか、昔の怪我の後遺症のヘルニアが関係しているんじゃないかとか、もしかして脳に異常があるんじゃないかとかあれこれ悩んでいたのだが、単純に字を書かなくなっていたせいだった。ほんの数日で、手はペンの持ち方や力加減を思い出してくれた。
そして、自分がなにが好きなのかも思い出した。
最近はなんでもネットである。ネット自体が悪いわけではない。家に居たままで買い物ができる。昔は手に取るのさえ難しかった、非英語圏の本を自由に読んだり買ったりすることができる。版権切れの作品を集めたサイトは図書館のように使うことができる。世界中のニュース動画やポッドキャストを鑑賞することができる。昔気になって、でも聞きそびれてしまっていたアルバムをサブスクリプションで好きなだけ聴くことができる。便利だ。
でも、自分には合わないことがあった。ネットがずっと前からしきりに勧めてきた、繋がってみんなで盛り上がる、という愉しみだ。世界中の人が、繋がって共有したり、なにかを褒め称えたり怒ったりしている。自分もそうしたことが愉しくてすばらしいと思っていた。でもどうも違ったらしい。
なにかを愉しむときには、自分はそれ自体を愉しみたいし、なにかについて考えるときには、それについてじっくり考えたい。今の、特にSNSやニュースのコメント欄は、「なにかをネタにして盛り上がること」の方がメインになってしまっている。そのため、すぐれたコンテンツでも、タイトルや冒頭の印象だけで炎上する、ということがけっこうある。あまり問題にされないのは、文章を読み込むことよりも、それをつまみに不特定多数の人と盛り上がることのほうが大事だからだ。そうした愉しみがあってもいいのだが、自分は興味がないと思った。
AIもあまり使わなくなった。たとえ擬似的なものでも、誰かとの会話と、自分自身と向き合い、ひとりでものを書く行為は違うからだ。そして、自分はひとりで自分と向き合う時間が好きなのだ。
こうしたことに改めて気づかされたのは、手で書くという行為がおかげだと思う。
自分が子供の頃はキーボードで文字を打つことはまだ一般的ではなかった。私は父のお下がりのワープロ専用機を使っていたけれど、勉強をするときや日記をつけるときは手書きだった。日記には鍵付きのハードカバーのものや、少し高い凝ったデザインの普通のノートを使っていた。
父が買ってくれた、アンネフランクにちなんだ日記帳に夢中になっていた頃、まだネットはなかった。SNSもなかった。いつも何かと繋がっていなくてはならないストレスもなかった。夜は長くて静かだった。
書くことを通して、あの頃の心地よさが戻ってきた。
2025/10/31
Kohana