昔、整形をテーマにした近未来SFを読んだことがある。マイナーな雑誌の連載で冒頭数回しか読めなかったのだが、もしこれが現実になったらどうなるのだろうと考えながら愉しんでいた。美人の基準なんてだいたい同じだからみな同じ顔になるんじゃないか、いや、流行に流されずに個々人が理想や好みを追求すれば、様々なタイプの“美人”が街にあふれるのかもしれない。多様化の時代である。
しかし、自分の理想をそのまま容姿に反映させられるとなると、それはそれで大変そうだ。肌はきれいだけど髪質が甘いとか、その髪色にその眼の色はないだろうとか、指の長さと爪の形のバランスがおかしいとか、所謂“美意識警察”のような人が沸きそうな気がする。全部自分の思い通りになるのだから「これは生まれつきなんです、祖父に似てしまったんです」と言い訳もできない。めんどくさそうである。そんな時代に生まれなくて良かった。妄想癖のある自分はそんなことを考えた。
しかし、今の時代はあの作品の未来に似ていないか、と最近思った。といっても美容整形ではなくSNSの話である。
SNSでは競うように顔写真をアップしたり、行った場所や買ったものや買ってもらったものを事細かく報告している人がけっこういる。何人もの男性と同時にお付き合いしてチャットの内容を無邪気に報告している人、「今日は彼が何時に帰ってくるからそれまでにこんなご飯を用意して、明日は何時からここに行って、週末はどこそこでデートです」と事細かく書いている人。自分は古い人間なので、病気をうつされないかとか、悪意のある人に知られたらどうするのかとハラハラする。
でも、そうした人たちは私には見えないグループを作っていて、そんな報告をしあうのが日常なのだ。そしてこうした報告はだいたいキラキラしている。具体的に書くと、恋人と買ってもらったものと連れて行ってもらった処と飲み食いしたもの、そのブランド名と店名と時に値段が文字数の8割を占める。「今日はゴミ出しもないのでぎりぎりまで寝てパンを焼いて食べ、どうにか洗濯と掃除をしました。実はまだパジャマで顔も洗っていませんがこのまま本を読もうと思います」ということは事実でも書かない。
そうした人たちのタイムラインは自分を装うための物語なのだなあと思った。粘土をこねたり刻んだり整えたりするように、細々した投稿の積み重ねて理想の自分を作り上げているのだ。
そしてもちろん理想も人それぞれだ。自分は所謂キラキラ投稿はあまりうらやましいとは思わない。高額なものを買ってもらっている人を見ると「贈与税は‥‥」と余計なことを考える。反面、海外での生活を、楽しいことから困ったことまでいきいきと書いている人を見るといいなあと思う。
一方自分は小さいSNSで、読んだ本とか見た映画とか、海外のニュースで知った変な話をぼちぼち報告している。どこかの雪山で氷のバスタブに浸かった人がギネスに載ったとか、リスが大量死していたと思ったら暑さでばてていただけだったとか、どうでもいい話が多い。面白がってくれる人がいる一方で、なにさ知ったかぶって、と考える人がいてもおかしくない。
ネットでの個人のイメージは、本人の投稿とそれに対する受け手の共感や羨望や反発で成り立っているのだと思う。そんな中で理想の自分を作り上げるのは至難の業だ。何度炎上しても“私の思う素敵な私”から離れない人を見ると感心する一方で、整形を繰り返して「素顔の方が良かったのでは‥‥」と言われている人を思い出してしまう。
2026/03/06
Kohana