政治が面白いことになってきたので、ニュースを丁寧に読んでいる。
私は食事中に両親が政治談義をするような家庭で育った。新聞はいちばん多いときで3紙取っていた。だから自分も子供なりにあれこれ考えていて、小学生の頃は「とにかく戦争はよくない。戦争は絶対にしない政治家がいいな」と漠然と思っていた。どこかにすさまじい悪人がいて、そんな人が私利私欲で戦争を起こすのだと考えていたのだ。でも中学生になると、世の中はそれほど単純なものではないらしいとわかってきた。
初めての選挙の時、どこに入れたかはよく覚えていない。でも、その日は両親と一緒に開票速報を見た。我が家は投票日のたびに大晦日に近い盛り上がりを見せていた。母は自分の支持する政党や候補が落選確実になると、「なんだつまらない、お母さんもう寝るからね」と寝室に引き上げてしまい、残された父と私であれこれ話しながらいつまでもお茶を飲んでいた。
投票には病気や怪我で動けないとき以外はほぼ行っていた。もう何年も前から投票日はひとりでテレビを見ている。
政治についても以前より、もう少し深く考えるようになった。父が昔、自分の発言を悉くいなしていた理由もわかってきた。当時の自分はまだ、どこかに絶対の正義があって、その人とか集団がトップに立てば魔法のように世の中をよい方向に導いてくれると信じていた。繰り返しになるが、世界はそれほど単純ではない。だから政治は面白いのだ。
もっとも、最近の世界は絶対善と絶対悪の二元論に傾いているようである。
それで思い出したのが、昔読んだ野球についての短いエッセイだ。球場ではチームAの選手がホームランを打てばそのファンが歓声を上げ、Bの選手がいいプレイをすればそのファンの人々がどよめく。球場はそのたびに揺れる。その人は、テレビ観戦ではどうしても理屈っぽい見方をしてしまいがちだけれど、野球は本来こんなふうに楽しむものではないか、と書いていた。
今の政治は球場での野球観戦に似ている。同じ考えを持つ人同士で繋がり、大きな動きがあるとタイムラインは声援と罵詈雑言であふれかえる。Aに有利ならそちらの側が湧くし、BがファインプレーをすればBの側が湧く。単純な言葉で熱狂的に誰かを支持したり、罵ったりする人たちは結構楽しそうである。
政治がそんなふうでいいんだろうかと思うが、政治が大きく動くときはいつもこんな風だったのだろう。
自分も一応支持している人がいる。でも、その人の主張について完全に理解しているわけではないので、もっとよく知りたくて時々著書を読んでいる。あまり好きになれない人でも、ある部分には強いシンパシーを感じているので、発言にはきちんとメモを通すようにしている。
そして、そうした複雑さに眼をつぶって熱狂的に応援したり貶したりする、というのが苦手である。根っから理屈っぽいのだ。だから政治の世界に動きがあると、他の人たちが楽しげにどよめくのを眺めている。
そのたび父が生きていればなあと思う。
2025/10/10
Kohana