ある人に勧められて、今、自己啓発本を読んでいる。
自己啓発本は滅多に読まない。どれも大体同じことが書いてあるからだ。今読んでいるものはけっこう面白いが、けっきょくはどこかで読んだり聞いたりしたことばかりだなあと思う。大きな目標は小さく分けるとか、すべきことをリストアップして優先順位をつけるとか、本当に好きなことを見つけなさいとか、そのためには子供の頃のことを思い出してみようとか、そんな内容だ。
自分の好きなことは考えるまでもなく、本を読むことである。でも時々、本当にそうだろうかと不安になることがある。「これが本か、本ってなんて素晴らしいんだろう!」といった、感動的な出会いの記憶がないからだ。通っていた保育園が読み聞かせの盛んなところで、それをきっかけに本に執着するようになったらしい。読書についての最初の記憶は、保育園の大きな本棚の前にうずくまるようにして、ちいさいモモちゃんを読んでいたというものだ。
学生時代の友人は、ある日深夜にバイトから戻ってきて、なんとなく部屋のテレビをつけるとアニメをやっていて、「世の中にはこんなに面白いものがあるのか」と感動し、アニメにはまったそうである。その年齢までアニメを知らなかったというのが不思議だが、かなり変わった子供時代を過ごした人だった。彼のような感動を覚えていれば、自分は本が好きだと自信を持って言えるのになあと思う。
ところで、自分の最初の記憶ってなんだろうか。
一番最初の思い出はぼんやりしている。当時預けられた家の庭で、クローバーやたんぽぽを摘んでいるというものだ。小さな家の入り口で誰かが自分を見守っていて、集めた花をその人にあげるつもりだった。幸せという言葉はまだ知らなかったが満たされていた。
その数ヶ月語に別の家に預けられ、その家から近くの幼稚園に通うことになった。そこでの記憶はうす暗く、やはりぼんやりしている。幼稚園はキリスト教系で、敷地内に小さな本物の教会があった。毎日朝に脇の入り口からその教会に入って、お話を聞いたり歌をうたったりした。壁の上の方に大きな銀色の十字架がかかっていた。
その幼稚園である日、避難訓練があった。お絵かきの時間の最中にサイレンが鳴るので、クレヨンや画用紙を“しまったりせずに’席を立ち、すみやかに並んで裏庭に避難するのだ。自分はうっかりして、クレヨンと画用紙をしまって並んでしまった。訓練が終わって園内に戻るとき、先生が「クレヨンと画用紙をしまった子は、死んでしまいました」と言った。つまり、これが本当の火事だったら逃げ遅れていましたよ、ということだ。
これを聞いて私は、「自分は死んでしまったんだなあ」と思った。これが生まれて初めて、自分で言葉にした自分の内面だった。その頃から世界がはっきりしはじめた。教会は好きだったけれど、その幼稚園自体は重苦しくて決まりが多く、あまり好きにはなれなかった。その後、やっと入れた保育園で本に出会い、読むことにのめり込んでいった。
自分は宗教とか神話といった不思議なことが好きである。特に、死後の世界については小さい頃から周囲が心配するほど強い興味をしめしていた。
最初の言葉が「自分は死んでしまったんだなあ」だったのなら、これも無理のないことなのかもしれない。
2025/10/13
Kohana