対話が大事だ。よく聞かれる言葉だ。
戦争が起こるたびに対話の大切さが説かれるし、特に左派の人たちは普段から対話の重要性を訴えている。
しかし自分はそれを聞くたび首を傾げてしまう。左派の人たちの「話せばわかる」はこんな意味に聞こえるからだ。
「私たちの信じる自由とか民主主義とか平等とか差別反対とか弱者救済とかは、絶対に正しい思想のだ。これは人類すべてが求めるべき理想だ。こんな素晴らしい考えがわからないのはきっと理解が足りないせいだ、だからきちんと話せば自分たちに賛成するはずだ、さあ、話しましょう」
これは対話ではなく説得、説得よりは調教だ。
自分は自由も民主主義も平等も大事だし、差別は嫌いだし、困っている人は助けた方がいい(正確に言えばそれができるだけの余裕が国や社会にある方がいい)と思う。でも、上のようなニュアンスに気がつくと、そりゃ違う考えの人には嫌われるよなと思う。視野が広いようで狭いし、なにより傲慢だ。
世の中には自由や民主主義よりも安全安心がいい、という人も結構いる。自由と民主主義は体力を使うのだ。信頼できる誰かに任せるのは楽である。もしかしたら自由や民主主義が好きな自分が間違っていて、損をしているのかもしれない。SNSを眺めながらそんなことを考えていた。
そのSNSの、同じ国の、同じ言葉のやりとりでもよくトラブルが起きている。語ることや書く行為はつねに誤解されるリスクを伴うし、同じ出来事でも立場によって見え方は違う。そして、自分が誤解だと感じることが実は核心に近かったり、反対側からの見方が文字通り新しい視点を与えてくれることもある。だから他人の考えに触れることは面白いし、価値があるのだ。
今のSNSが怖いのは、自分が気に入らない語られ方を見たときに、(悪意のある)フェイクだと言い出す人が増えたことだ。さらに取り巻きの人たちがそうだそうだと持ち上げて小さい世界を作ってしまう。世界を繋げられるツールなのに、似た考えの人同士が強く繋がると新しい分断が生まれてしまう。勿体ないことだ。
だから自分はたいして発言せず(どうせ普段からしないのだが)、だらだらとタイムラインを眺めていた。
アメリカやヨーロッパの人の感情表現や価値観もわからないことが多いが、中東となるとますますわからない。聖書に「胸を叩いて嘆き悲しむ」という表現があるのだが、実際にそうした仕草をしている人がいてびっくりする。キャスターの方が目を潤ませ、感情豊かにニュースを伝えているのでびっくりする。これで国が変わるはずだと、喜びの感情を踊りで表現する女性を見てますますびっくりした。日本ではこんなふうには踊らない。日本人の感情表現は地味なのだ。とにかくわからないことだらけだ。向こうの人も日本人のことはわからないと思うだろう。
それでもわかることもある。爆撃で亡くなった女の子の遺品をお父さんが泣きながら広げているのを見た。血に染まった鞄の中にはかわいらしい文房具や小物が入っていた。自分が学校に通っていたときも、ちょうどあんなノートやポーチを集めていたのを思い出した。住む場所も言葉も価値観も違うのに、似たものを可愛いとか、素敵だと感じていたのだ。
他人なんてわからないことが多い。正しさや良さの基準も絶対ではないし、言葉だって半分くらい勘違いして使っているのかもしれない。対話なんて八割くらい通じないと考えた方がいい。だからまずは通じる二割くらいの部分を大切にしたい。
2026/03/03
Kohana