新しい総理が選出された。日本初の女性総理である。なんとアメリカの大統領より早い。
しかし、本来ならこれに喜びそうな人たちは複雑な顔をしている。政治的な主張が相容れないからだ。日本の総理としては若く、女性で、主張はかなり右寄りで、しかも学生時代はドラムを叩いていたというので海外でも注目されている。女性ドラマーというのは特にイギリスでは外せない要素であるようだ。謎である。
自分はというと、正直言って新しい総理は好きではない。かといって、すべての主張に反対というわけでもない。
しかし、自分のような考えは今の時代は嫌われる。支持者は彼女の踵の角質のかけらまで拝まんばかりだし、反対の人は袈裟どころか彼女が触れた階段の手すりすらた叩き壊しそうな勢いである。だから自分は何にも言わずに新聞を読んでいた。
そこでびっくりする記事を見つけた。新総理は既婚で、ご主人は料理が得意で以前はよくキッチンに立っていたという。また、ご主人の方が姓を変えたのだそうだ。
なんだか変な感じだ。昔ながらの家庭のあり方を重視する新総理と、イメージが正反対だからだ。
更に読むと、おふたりは政治信条の違いから一度離婚し、しかしその数年後に再婚したそうである。少し前にご主人は病身であると聞いたが、記事ではそれについては触れられておらず、日本初のファーストジェントルマンとなったご主人へのインタビューが中心だった。
それを読んで、いいなあと思った。この夫妻の、政治的な意見は違っても、パートナーとして信頼し合っている点がである。
自分は深い人付き合いが嫌いで、特に恋愛や結婚なんてまっぴらだ、と思っている。そんな風に言うと母さえ「老後はどうするの」とびっくりするのだが、今の独居老人のほとんどは既婚だ。老後の孤独に既婚か未婚か、子供がいるかいないかはあまり関係がないのだ。
と話が脱線しかけたが、自分が人と関わるのをやめたのは、親密な人間関係のあり方にうんざりしてしまったからだ。たまたまかもしれないが、自分と親しくなる相手は、「好きなら理解しろ、すべてを受け入れろ」という人が多かった。この場合の「理解」は、「自分の意見には全部賛成し、好きなようにさせて必要なときにはサポートしろ」という意味だ。大袈裟に言えば奴隷契約のようなものである。そんな関係は、こっちとしては少しも幸せではない。昔ながらの「尽くす女」みたいなタイプなら違うかもしれないが、自分はそうした人間ではないのである。
かなり長く我慢したが、ついに限界が来て人間関係も結婚も自分の人生からすっぱりと除外した。だからネットで「何でも話せる人が欲しい」などと書いてあるアカウントを見つけると(いい大人でもこうした人は少なくない)、男女問わず距離を置く。とにかくすべてを理解するとか、何でも話せるとか、ありのままを受け入れるとか言う言葉は苦手だ。そんなことは不可能だとも思う。
しかし、もし新総理とご主人のような関係になれる相手がいたら、少しは結婚というものについて考える気になったかもしれない。
彼女の思想の根幹部分にはけっして賛成できない。その一方で彼女の人となりや、なぜそうした思想に至ったのかについては知ってみたいし、そのためにもネットで推し活のように支持する人とは距離を置きたい。もちろん彼女のすべてをこき下ろす人にも賛同はできない。
自分のような人間は今の時代は嫌われる。でも、「はっきり態度を決める」ことや「しっかりとした意見を持つ」ことが、「物事を単純化する」という意味になったのはいつからだろうか。
2025/10/22
Kohana