某大手SNSで、「自分の大切な人が死刑になっても、あなたは死刑制度に反対するのですか」という投稿を見かけた。その人は死刑制度に反対の立場らしく、問題提起のためにこれをポストしたようだ。
反応は大荒れだった。自分は少し覗いただけだが、ほとんどの人がその発言に反対するか、くだらないと一蹴していた。
しかし自分が気になったのは、死刑制度云々よりも“大切な人”の定義だった。
けっこう目についたのが「死刑になるような人間は大切な人ではない」という意見だ。あとは「死刑になるような酷い人間とは関わらないから、そんなことはあり得ない」というもの。中には家の恥だからさっさと死刑にしてほしいという人もいた。ずいぶん大時代的である。
自分はというと、法に触れたのだから死刑は仕方がないなと思う。さらに、その法が理不尽なものでなく、相手が人として許されないことをしたなのなら、大切な人ほどきちんと償ってほしいと思う。でも大切な人だから相手が刑に処される直前まで手紙を書くだろうし、可能な限り面会に行くだろうし、執行の知らせを受ければすぐに迎えに行くだろう。この辺りの手続きがどうなっているのか知らないのだが。
我ながら重い。ほとんどの人は、“大切な人”という言葉をそこまで深い意味には使っていない。せいぜい親友とか家族とか恋人止まりだ。しかし、自分にとって大切な人とは、親友や家族や恋人より更に特別なものだ。
だから大切な人なんて言葉は実生活では使った覚えはない。あるとすれば所謂黒歴史である。自分にとっては一生に一度使うか使わないかの言葉なのだ。
大切な人の定義についてはともかく、日本人のほとんどはこうした言葉は使わないだろうと考えていた。愛してるとか大切な人なんて言葉を連呼するのは西洋の風習なのだ。香港出身の俳優ジミー・O ・ヤンがスタンダップコメディで「自分が家族に愛しているなんて言ったら、不治の病になったのかと相手をびっくりさせてしまう」と話していたので、日本以外のアジアの国でもそうなのかもしれない。
しかし、こうした考えは古くさいようだ。子供にはっきり言葉で愛していると言いましょう、というフレーズを目にしたことがあるし、ネットのつぶやきはロマンティクな言い回しに溢れている。AIも砂糖菓子のような言葉を使って寄り添いたがる。
さらに公共放送は災害が来ると「あなたの大切な人」という言葉をやたらと使うようになった。そのたび自分は居心地の悪さというか、気持ちの悪さを感じてしまう。
死刑の話に戻ると、誰かにとって大切な人かどうかを法と結びつけてはいけない。命に関わる問題は、みんなに好かれているかどうかで決めていいことではない。100人の友達に囲まれて恋人に溺愛されている人でも悪事は許されないし、世界中から嫌われているひとりぼっちの人でも法には守られなくてはならない。
大切な人という言葉の定義や好き嫌いは完全に自分の個人的なものだ。その一方で公共放送の大切な人連呼に違和感があるのは、言葉の大仰さに加えて命の危険と“その人が大切にされているかどうか”を不用意に結びつけている気がするからかもしれない。
なんだか雑多な内容になってしまった。
2026/08/28
Kohana