ネットなどで読んだり見たり聞いたりして、どうしても納得できない言葉がいくつかある。
そのひとつが「先生は世間知らずだ」「だから外部の人間を入れるべきだ」というものだ。
自分の親は地方の公立小学校の教師をしていた。だからその苦労は当時から日々実感していた。教師は専門職であり、責任も重い。なにしろ数十人の生徒を毎日教え、指導し、大袈裟だが生活を共にして過ごすのだ。私は子供の頃はいつも、親の担任の顔も知らない子供たちに嫉妬していた。
課外活動などの残業代も出ないか出ても乏しい。夏休みや冬休みは学校が閉まるだけで先生方は休んではいない。給料だって仕事にが見合わない額である。
田舎の公立小学校の先生は、けっこう裕福な家庭の子から生活保護すれすれの貧困家庭までひとつの教室で教える。自分はその田舎の公立の小学校に通っていたのだが、毎日お姫様のようは服を着てくる子もいれば、いつもうっすら黒ずんでいる体操着姿の子、「あの子はチョウセンジンだ」と陰口をたたかれてひっそり泣いている子もいた。その言葉の意味を知らい自分はひとりおろおろしていた。多様性の代名詞のようなクラスを、ただ教えるだけでなく仲間としてまとめ上げる苦労は大変なものだったはずだ。教わった先生の中には二度と会いたくない人もいるが、この件については心から尊敬する。
もしも先生が世間知らずの専門馬鹿であるなら、先生の仕事は勉強を教えることに特化して他のこと、たとえばしつけや社会学習は各々の家庭でやればいい。今の学校は健康診断など公的サービスの窓口にもなっているが、それもやめてしまえばいい。でもなぜかそうはならない。今の家庭は殆どが共働きで忙しく、そんな暇はないからだ。各家庭に任せれば格差が広がってしまうではないか、というもっともらしい理由もある。
学校とか学校の先生はかつて、あがめ奉られる存在だった。親御さんたちはこぞって「先生うちの子をお願いします、駄目なところがあれば叩き直してやってください」としつけも学校に丸投げしていた。今もよく眼にする「これは義務教育で教えるべき」という無責任な言葉はその名残だ。
反知性主義が問題になって久しいが、この発端は先生に対する信頼や敬意の喪失なんじゃないかと思うことがある。でも、反知性主義を嘆く人も先生叩きは結構好きだ。きっとみんなの心の中に、先生に対する絶対的な信頼と甘酸っぱい反抗期の両方がずっと残っているからだ。厄介な話だなあと思う。
2026/01/13
Kohana