子供の頃、親にものをねだるときについ使ってしまう言葉があった。
「だって、みんなが持っているんだよ」
後半は必要に応じて「見ている」とか「やっている」に変わる。重要なのは「みんなが」のほうだ。みんなが持っていたり見ていたり、やっていたりているのだから、自分だってそうしてもいいはずだ。考えてみるとずいぶん乱暴な理屈だが、当時の自分は特に変だとは思わなかった。
しかし、両親はこの理屈を一切受け付けなかった。
「みんなって誰、ちゃんと名前を言ってごらん」
指を折りながら、どうしてもほしい星のモチーフつきのペンを持っている子の名前を挙げ始める。ひとり、ふたり、3人。もう思いつかない。隣のクラスの話したこともない子の名前を絞り出しせば終わりである。
「4人なんて全然みんなじゃないよ、だめ」
そして、そのペンを買わなくても特に問題はなかった。その数人の子がペンを使い続けたのかどうかも覚えていない。もともとたいして欲しくはなかったのだ。
「見ている」で食い下がったこともあった。みんなが見ているバラエティ番組を見たい。だってそうしないと話について行けないんだもん。
両親はあまり見せたくなさそうだったが、とりあえず一度だけ、と許してくれた。自分はテレビに貼り付いて放送時間を待った。でも、その番組を面白いとは思えなかった。芸能人が集まって猿のおもちゃみたいに手を叩いて笑ったり、互いをどつきあったりしていた。しまいにはものをぶつけ始めた。自分の眉間の皺はどんどん深くなっていった。
「もういい」そう言って立ち上がり、テレビを消して寝る支度をした。どうしてこうなっちゃうんだろうと思った。自分はほかの子と笑いの感覚が違うらしい。
それから自分は周囲からずれまくったまま大人になった。そして世の中も変わった。自分が嫌だと思っていたような番組は、少なくとも表向きはけしからんということになった。その一方で、「だってみんなが持っているしやっているし、言っているんだもん」という理屈を世界中が言うようになった。みんなが、に騙されて明らかな間違いを信じたり人を傷つけたり、中には命を絶つ人もいる。どうしてこんな風になってしまったんだろう。
ところで先日、たまたま古いお笑い番組をネットで見た。自分が当時、どうしても受け付けないと感じたタイプのものだ。でもあの頃のような嫌悪感は全くなかった。当時は暴力的に思えたドタバタは改めて見るとコミカルで、タレントさんたちは楽しそうにスタジオを転げ回っていた。中には笑いすぎて膝が立たない人もいる。
今もあの中に入りたいとは思わないけれど、楽しそうな人を見るのは楽しい。なぜこうなったのかはわからないが、これについてははまあいいか、と思っている。
2026/01/23
Kohana