過去に受けたいじめについて話す機会があると、「そんな酷い体験をしたなんて」と、ほぼ100%同情される。ここにも何度か書いているので「こいつは今も相手を恨んでいるのだろう」と思われていそうである。しかし実はそうでもない。
「いや、べつに‥‥」というのが正直な気持ちである。「子供のやったことだしなあ」とも思う。そして、「それより昨夜の珈琲のせいで胃が辛くて」などと考えている。
許したというよりは無関心だ。気持ちが離れたということだろうか。後悔はあるが、それも自分に対するものの方が大きい。「あの程度のことでそこまで傷つかなくても」とか「もっと要領よくやれば良かったのに」といったふうだ。しかし、当時の自分には精一杯だったわけで、まあ仕方がないかと思い直し、最低でも2日は珈琲をやめようと誓ったり、ホットワインで吐き気が収まるかもしれないともくろみ始める。
つまり、いじめは自分にとって過去のことになったのだ。振り返ると実に遠い。眼鏡でも望遠鏡でも見分けがつかないくらいである。そして、わざわざそこまで戻って悲しみや恨み辛みをほじくり返すつもりもない。
これは自分が博愛主義者だからではない。めんどくさいからだ。それに、今の自分の生活や将来のの方が気になるからだ。
私自身、自分がこんな風になるとは思ってもみなかった。もちろんなろうと思ってなったわけでもない。気がついたらどうでも良くなっていた。自分の中の時計が動き出したのだ。
心に傷を負った人は、その瞬間で魂の時計が止まってしまう。その時にとらわれて身動きが取れず、前に進むことができない。
不幸平なことだが、加害者や傍観者は過去など忘れてどんどん先に進んでゆく。被害者側がけっして許せない言葉を敢えて使うと、成長する。そして、「そんな昔のことを言われても」とか、「あれは本当に申し訳なかった」といった言葉を口にする。
本心からの言葉でも、いじめられた側はけっして許すことはできないだろう。相手が本当に心を入れ替えたとしても、それを受け入れるのも難しいだろう。多くの被害者にとって、心の傷は「昔のこと」でも、「申し訳なかった」と過去形で語られるものでもない。本音を言えば被害者は、加害者には改心などせず、ずっと悪人でいて欲しいのかもしれない。ここにいじめの残酷さがあると思う。
私自身の時計が、なぜ動き出したのかは自分でもわからない。どんなに時間が経っても止まったままの人もいる。二度と動かなくなった時計を心の奥に隠している人もいるかもしれない。
だから自分は「時が心を癒やしてくれるよ」とか、「過去のことなんて忘れて前に進まなければ」とは言えない。ただ、いじめや心の傷について、もう少し触れておこうと思って書いてみた。
2025/11/02
Kohana