帰りのバスに乗り遅れた。停留所の時刻表を見たが、プレートが3つもある上に肝心の時刻の部分が掠れている。数人のお年寄りがベンチに掛けておしゃべりをしたり、時刻表と近くの横断歩道の間を行ったり来たりしていた。次のバスは30分以上先らしい。田舎ではよくあることだ。
せっかちな自分は家まで歩くことにした。どうせバス停ふたつ分くらいだし、いい運動になると思った。
アスファルトの道は森の間を抜けていった。バスや車で行き来する時はたいして気にならないが、歩くと昼間でも物寂しい。熊かイノシシでも出るんじゃないかと足を速める。森を抜けると左手が開けた。踏み固められた褐色の空き地と、赤っぽい屋根の平屋の群れが現れた。
南米からの移民の人たちが暮らしている地域だった。ここまで来れば家はすぐだ。特に物騒な話は聞かないし、ここの店でしか手に入らない雑貨や食べ物を買うために立ち寄る人も多かったが、自分はまだこの地域に入ったことがなかい。
そのまま通り過ぎようとすると、雑貨屋の窓から男性が身を乗り出してこう声をかけた。
「なにか買っていかない?」
漫画のような口ひげを蓄えた、肌の色の浅黒い、眼のくるりとしだおじさんだ。
初夏だった。涼しい森を出て汗をかき、お腹もすいてきていた。ここでお弁当でも買って、持ち帰って食べるのもいいかもしれない。雑貨屋の隣はバーで、看板にビールのジョッキと樽の飛び跳ねるようなイラストが描かれていた。
雑貨屋の中は広々として、木材のいい匂いがした。棚やテーブルには色鮮やかな人形やお皿、エプロンや小箱、どんな料理に使うのか分からない奇妙な鍋が並んでいる。食べ物は売っていないようだ。どうしようかと悩んでいると、大きなアイスクリームケースが目に留まった。中にはなんのへんてつもない、ソフトクリームの形のコーンアイスが詰まっている。
「アイスください」と言うと、髭の主人は「何色?」と訊きながらケースの蓋を開けた。ひんやりとした白い煙がもうもうと上がって部屋を満たした。冷たい霧がすっかり引くと、アイスにはピンクや茶色、淡いラベンダーやミントの色がついていた。「このアイスは溶けないからゆっくり選んでいいよ」といい、彼は裏に引っ込んでしまった。
散々悩んで、茶色との白の二本のパックと、五色のアソートに決めた。アイスはどれも、普通のソフトクリームアイスよりまるっこい。蓋を閉めようと思ったが、自分が不器用なのかロックされているのか、どうしても閉まらない。いくら溶けないといっても開けっぱなしはまずいだろう。そもそもお店の人を呼ばなければせっかく決めたアイスを買って帰ることもできない。店の中もなんだか蒸し暑くなってきた気がする。
「すみませーん」何度も声を張り上げていると、さきほどのドアが開き、ぬっと誰かが現れた。でもあの店長のおじさんではない。温和というかぼんやりとした顔の、大学生くらいの男子である。
「親父は今手が離せなくて」お父さんよりも日本語の発音が自然だ。
彼はアイスを持ち帰り用の手提げ袋に入れてくれた。袋は無料でアイスは912円だった。現金払いしか受け付けていないらしい。今時珍しいし、不便だなあと思いながら財布の中を引っかき回した。
しかし蓋は閉まらない。「親父に訊かないと」彼は言い、どこからともなくな白い受話器を取り出した。しばらく話したあと、受話器の脇のボタンを押して電源を切ってこうつぶやく。「会議中で出られないみたいです。まあ、開けっぱなしでも半日くらいは問題ないんですけどね」
「会議って、店長さんの集会かなにかですか」
「いえ、大統領です」
「この国には大統領はいない筈ですけど」
「そりゃそうですよ、○○の大統領です(国名はごちゃごちゃしていて聞き取れなかった)、うちの国は60歳以上になるとくじで大統領役が回ってくるんです」
「くじ?」
「大変な役回りでね、だってほら、今、隣があれじゃないですか。みんな嫌がって海外に逃げちゃうんですよ。うちの親父も逃げたんですが、けっきょく見つかって今はリモートで大統領をやっているんです」
自分は店を出た。隣のバーで持ち帰りのランチとビールを売っていないかなと思ったけれど、寄るのはやめておいた。今度は首相とか外務大臣とか防衛大臣が出てきそうだったし、何かの間違いで自分がどこかの総理にでもされそうな気がした。
坂を上ってアスファルト道路に戻ると、次のバスがガソリンの匂いをまき散らしながらごとごとと走り抜けていった。橋を渡って少し歩くと住宅街が見えてきた。
ああ、変な話だった。あんなの嘘に決まってる。初めて来たお客をからかったんだ。
気温はどんどん高くなっていった。でも、貰ったビニールの袋はいつまでも冷たく、中のアイスもキッチンのフリーザーに入れるまでほんとうに溶けなかった。
2026/01/12
Kohana