子供の頃、初めて会う大人から決まって訊かれることがあった。
「こはなちゃんはお父さん似かな? お母さん似かな?」
これである。
当時の子供はみな、挨拶代わりに言われる言葉だったと思う。今はどうなんだろうか。
「そんなのどっちでもいいよ」と内心思っていたが、自分は誰がどう見ても母親似だった。
赤ん坊の私をお風呂に入れていたとき、母は自分自身と一緒に湯に浸かっているようで気味が悪くなったそうである。さらに「それでうっかりして、お前をお湯に落としそうになった」と恐ろしいことを言っていた。実際に落としたかどうかはわからないが、落としたとしても無事すくい上げてくれたのだろう。
そんな母に対して「気味が悪いなんて、ひどい」と言えないのは、私自身、同じように母のことを気味が悪いと思ったことがあるからだ。母の若い頃の証明写真を見つけたときに、大人になった自分か、でなければ、今で言うところの別の世界線の自分を見ているようで怖くなった。母と自分はそれくらい似ていたのだ。
それが、17を過ぎたあたりから母に似ていると言われなくなった。どこがどう変わったのかはよくわからないのだが、今はどちらかといえば父に似ていると思う。
自分は10年ほど前に大怪我で入院したのだが、たまたまそのとき父も病気で別の病院に入院していた。ふたつの病院を行き来していた妹がある日、
「びっくりした、お父さんとお姉ちゃん、痛みを我慢するときの表情がそっくりなんだよね」
と言い出した。
痛みを我慢するときの表情ってどんなだ。自分は一度も父を見舞っていないから見当がつかない。それに、痛みに苦しんでいるときに誰かの表情を真似する余裕はない。だとすると、これは遺伝によるものなのだろうか。
数年後に父は帰らぬ人となった。お通夜の日に周囲から指摘されて、自分と父の耳の形がそっくりなのに気がついた。映画や漫画の宇宙人の耳のように、ぎざぎざと尖っている。対して母の耳はきれいな楕円形である。これはわかりやすい遺伝だ。
遺品整理をしていて、父と自分は同じラジオを使い、同じプレイヤーで音楽を聴いていたのを知った。お互い知らなかったのに不思議だと思った。更に、自分がわざわざ古本で揃えたあるシリーズを父は全巻持っていた。
父が死んでしばらくあと、自分のため息とあくびの仕方がおじさんぽくなった。父に似てきたのだ。似てきたどころかそっくりある。
これもきっと遺伝なんだろう。でも、自分としては父の魂の一部がまだこの世に残っていて、自分と一緒にいてくれるしるしなのだと考えたくなってしまう。
なぜそのしるしがため息とあくびなのかについては、説明のしようがないのだが。
2025/10/18
Kohana