十代の半ばに心の病気になった。原因は学校でのいじめだ。
主な症状は強迫神経症などと呼ばれるものだった。とにかく何かを心配せずにはいられない。窓の鍵を確認し、手が汚れているのではないかと洗い続け、図書館で本を借りれば返却時になにか挟んでしまったのではないかと心配になった。とにかくいつも怯えていた。自分が無意識に変なことをして、そのために変な奴と言われ、いじめられるのが怖かったのだ。
そんな病気も所謂認知行動療法で寛解した。今の課題は心よりも首である。このストレートネックをどうにかしたい。しかし、時折ふっと昔の不安がよみがえることがある。
手を洗うのは少し神経質なだけかもしれない。いや、感染症予防には充分手を洗った方がいい。戸締まりも最近は物騒なので念入りに確認した方がいい。問題は人間関係だ。
たとえばなんとなく物事がうまくいかなかったり行き違いがあたったりすると、自分は嫌われているんじゃないかと思う。もしかして周りがぐるになって自分を揶揄っているのでは。いや、さすがにそれはないか。人間そこまで暇ではない。
そもそも嫌われる程度のことは仕方がない。誰でも苦手なタイプはあるし、自分だって嫌いな人くらいいる。問題はそれを表に出すかどうかだ。
回覧板を回すとき、自分が何か変なものを挟んではいないかと不安になる。次に回す前に繰り返し確かめる。しかし、確かめすぎると収拾がつかなくなるので思い切って次に回す。自分が恥をかくのと回覧板が回らないのと、問題なのはもちろん回覧板が回らない方だ。
こう考えると、昔と似た不安を抱えているが、捉え方が変わったのだとわかる。
昔の自分は誰か一人に嫌われれば人生は終わりだと思っていた。そして、すでに周囲は全員敵なのだと決めつけていた。そのせいで手を差し伸べてくれた人も拒絶してしまった。
自分が恥をかいたり、変な奴だと思われるのは絶対に嫌だった。そんな昔の自分だったら不安でいつまでも回覧板を次に回せず、やっぱりあいつはおかしいとか、迷惑な奴だと言われていたかもしれない。
いや、いじめのせいで萎縮していた自分は、すでに挙動不審な変な奴だと思われていた。クラスメイトからは、だからこいつはいじめてもいい奴なんだと見做されており、いじめに遭うのは自業自得だと担任からも言われていた。
今はどんな理由があってもいじめは許されない、子供っぽい行為だと知っている。だから萎縮する代わりに相手を軽く睨んで鼻で笑うだけである。
みんなに好かれるか、嫌われるかなんてどうでもいい。それより大事なのは自分自身と人としての正しさだ。そう開き直れるようになって大分生きるのが楽になった。
もっとも、そんな悟ったような中学生がいたらそれはそれで少し心配である。
2026/09/01
Kohana