その日は特に予定がなかった。だから朝から英語の勉強をしていた。午後からは本を読むつもりだった。
最高気温は20度台で、着るものに迷う日だった。ノースリーブの下着に五分袖のトレーナーを選んだが、寒くなってきたので寝室に戻り、長袖の下着と秋物のワンピースに着替え、更にカーディガンを羽織った。最近は気温変化が激しい。数日前はやっぱり寒くて、その翌日は夏日だった。
テーブルに戻って勉強を再開した。語学の勉強はリビングですることが多い。複数の本やノートを開くのに、広いテーブルのほうが都合がいいからだ。
脇の下がかゆい気がした。掻くとぶうんと音がしする。なんだろう。気になったが、集中すると他はどうでもよくなる性格なので英文に戻る。
しばらくしてまた同じ処がかゆくなった。服の上から掻くと、やっぱりぶうんと音がする。子供の頃物置にあった、父のギターの弦を弾いたときの音に似ている。なんだろう。下着のワイヤーが音を立てているのだろうか。
いやそんなはずないじゃん。
ペンを置いて立ち上がった。
同じ処に触れるとやはり音がする。これは虫だ。
まずカーディガンを脱いでみる。特にそれらしいものはない。脇の下あたりの違和感は続いている。また音がした。たしかにいる。自分は軽いパニックを起こし、腕ばたつかせながら部屋を駆け回った。しかし服を着たままでは走ろうと暴れようと無駄である。
そう気がついて、そろろそとワンピースを、それから下着を脱いだ。鏡で上半身を確認したが異常はない。音の主は床に放り捨てられた服の中にいるのだ。
意を決してワンピースを、次いで下着を取り上げ、振った。すると大きなものが飛び出してきて床の上にひっくり返った。自分は寝室に逃げた。
気を取り直し、改めてリビングに戻ると、その黒いものはまだ同じ処にひっくり返っていた。虫だ。大きい。それ以外はわからない。前脚をゆっくり動かしている。
スマホで写真を撮り、AIに訊くと、クマバチですねと返ってきた。クマバチは知っていた。以前動画を見たことがある。大きいがおとなしくてかわいいハチだ。
とりあえずほっとした。問題はこの、ひっくり返ったクマバチをどうするかだ。きっと洗濯物にとまっていたのに気づかず取り込んでしまったのだろう。
向こうは何も悪くないのに、退治するのは気が引けた。試しに庭で摘んだシロツメクサをすぐそばに置いてみる、するとハチは起き上がって花にしがみついた。
よかった。そっと花を庭に運び、クローバーの中に置いた。ハチは花に顔を埋めている。スマホで動画を撮ると、ハチがネコが顔を洗うように顔や触覚を整え、そのあと花をかき分けて蜜を吸う様子が映っていた。
リビングに戻ったが、勉強に集中できない。30分に一度はハチの様子を見に庭に出る。ハチはずっと同じ場所で花に顔を埋めている。新しいクローバーやタンポポを摘んで差し出すと、しがみついて蜜を吸い始める。
このハチは飛べないんだろうか。自分が羽を傷つけてしまったのでは。責任を感じた。それ以上にクマバチがかわいかった。だからその後も庭に出てはハチの様子を確かめ、花を運んだ。
もう秋なので花は少ない。ハチは見た目はきれいで時々羽を震わせているが、やはり飛ぼうとはしない。
夕方になるとハチの様子がおかしくなった。脚に力が入らないのか、花からずり落ちてしまう。きっと寿命だ。山の向こうに落ちる陽を眺めながら、何をやっているんだろうと思った。初めて飼った猫を看取ったときのことを思い出した。自分はシロツメクサの花束をつくり、ハチと一緒にクローバーの繁みに置いて家に戻った。
調べるとその蜂は雌だった。クマバチの雌は一応毒針を持っている。自分が刺されなかったのは刺激しないように扱ったのと、やっぱりハチが弱っていたせいだろう。寿命だったのかもしれないし、タンスの中で何日も蜜が吸えなかったせいかもしれないし、その両方かもしれない。
少し本を読み、パスタを作って無理矢理食べた。歯磨きもせずに寝てしまい、夜中に起き出して日記をつけた。AIで写真を水彩風画風に加工してもらい壁紙にした。それでやっと落ち着いた。
その夜は雨が降った。翌朝庭に出てみたが、クマバチは見当たらなかった。
あのまま死んでしまったのだろうか。それとも飛んで巣に帰ったのだろうか。
来年はあのクマバチの子がクローバーの上を飛ぶだろうか。
2026/10/20
Kohana