子供の頃、母方の叔母の家によく遊びに行った。叔母は穏やかで無口な叔父と従妹と一緒に大きな社宅に住んでいた。
専業主婦の叔母は料理が得意で、お菓子作りも好きだった。冬に行くといつもストーブの上でおでんが煮えていた。
その日は何かのお祝いだったのだろうか、いとこたちと叔母とでケーキを作ることになった。出来合いの土台に飾り付けるのではなく、スポンジも自分たちで焼くのである。母はフルタイムで働いていて料理も苦手だったから、自分はわくわくした。その一方で叔母の娘である従妹は、自分は一生買ったケーキは食べられないんだと嘆いていた。難しい。
叔母の監督の下、私と従妹は白身の泡立てを任された。真っ白いグラニュー糖を加えながら泡立て器で白身を叩くようにかき混ぜる。手が疲れるので交互に作業した。なかなか泡立たなかったが、どうにかそれらしいものが出来上がった。
ここで私たちはこっそりメレンゲの味見をし、顔を見合わせた。変な味だ。少なくとも甘くはなかった。
自分はその従妹より数歳年上だった。よく本を読むので普通の子供よりものを知っていると思っていた。しかも父は理系だった。だから知ったかぶってこう言った。
「砂糖は白身と混ざると化学反応を起こして、甘さが消えるんだよ」
化学反応なんて専門用語を知っているだけで勝ちである。従妹は私を信じ、私も自分の言葉を信じた。甘みのないメレンゲは加熱すると別の化学反応で甘さを取り戻し、お菓子になるのだ。
叔母はちょっと首をかしげながらメレンゲを受け取り、白っぽくなるまで砂糖と混ぜた卵黄と混ぜ合わせ、さらに粉と溶かしバターを加えた。それから生地を型に流し、オーブンレンジに入れた。
しばらくして焼き上がったお菓子はやっぱり変だった。膨らみが悪く白っぽい。化学反応に失敗したのだろうか。
叔母は焼き上がったスポンジを睨み、それから慌ててキッチンの調味料の棚を確かめた。そして大声で「食べちゃだめ」と叫んだ。あまりにもべたな失敗だが、砂糖と塩を間違えていたのだ。つまり私と従妹がこっそり口に入れたメレンゲは塩が入っていたのである。塩は甘くない。
せっかくのスポンジは廃棄になり、叔母は代わりにパンケーキを焼いてくれた。フルーツとクリームで飾ったきつね色のパンケーキは美味しかった。純朴な従妹は塩と砂糖の件を追求したりはしなかった。自分はほっとした。これからは知ったかぶりはやめようと思った。
それから長い年月が経ち、スマホというものができ、いつでもどこでもわからないことを調べられるようになった。1台目のスマホを手に入れた自分は面白がって眠くなるまで毎日あれこれ検索していた。
その夜、病院で薬を出されたばかりの私は服薬のタイミングについて調べていた。食前に飲む薬があるが、飲んだあとをものを食べて、胃の中で混ざってしまえば同じではないか。調べると某サイトで同じ質問をしている人がすでにいて、回答もついていた。
「薬やビタミンなどは食道で吸収されるので問題ありません」
子供の頃より少しはまともな知恵がついていた自分は、それは絶対にないだろうと思った。しかし驚いたことにその回答は「参考になった」と評価されていた。
いたずらだったのだろうか、本気でそう思い込んでいたのだろうか。以前、徹子の部屋は黒柳徹子さんの自宅から中継していると信じていた人の話を聞いた事があるから、この人もなにかの弾みで、薬の成分や栄養素は食道で吸収されるのだと信じてしまったのかもしれない。
今はいろいろな科学的な間違いというか、思い込みが蔓延している。端から見るとおかしいのだが、信じている人の中ではそれなりに理屈が通っているようで面白い。でも自分の中の理屈をそのまま世界の基準にしてはいけない。砂糖は化学反応で甘さが消えたり復活したりはしないし、食道は薬や栄養を吸収したりはしないのだ、多分。
その後、薬の件について主治医の先生に聞くと、「不安なら食事まで30分くらい開けて」とのことでした。
2026/02/26
Kohana