自己肯定感の塊

kohana
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公開:2026/1/11

2026年の最初の日曜のことである。

家族で集まって冷凍のおせちなどを食べ、暇だったので昔のアルバムを何冊か引っ張り出して眺めていた。デジカメ以前の紙写真のアルバムである。両親の若い頃の写真は白黒だ。アルバムは古いものほど装丁が豪華で大きい。さすがに本革製はないが、合革や布のカバーが掛けられてどっしりしとしている。

父と母が付き合っていた頃のもの、結婚式、海外旅行、家を建てる前の地鎮、懐かしいリビングのまあたらしいカーペット。そして自分が生まれる。

正直に書くと、幼少期の自分は河童のような顔をしている。この河童面はその後縦に引き延ばされて幾分ましになるのだが、10歳くらいまでは誰がどう見ても河童である。野山を駆けまわる小人とか子鬼のかわいさだ。間違っても天使とか美少女の美しさではない。

そして、生まれて間もない頃にすでに自我が芽生えている。脇に吹き出しをつけて何かしゃべらせたくなる写真ばかりである。

なるほどと思った。自分は子供の頃からよく喋る方である。交通事故で大怪我をしたとき、病院に駆けつけた家族が「処置室からものすごくはっきりした話し声が聞こえたので、生きていると分かってほっとした」と言ったほどだ。余談だが自分はこの直前に臨死体験めいた体験をしている。大袈裟に言えば死んで生き返ってすぐに立て板に水とばかりに話を始めていたわけで、これは筋金入りである。

ページをめくるたび、アルバムの自分は少しずつ成長してゆく。服はズボンが多い。母は動きやすさを重視していたようだ。しかし、そのズボンも花柄だったりアップリケがしてあったりレトロでかわいらしい。

更にページめくって衝撃を受けた。

なんだこれは。

多分3歳くらいの時の写真だろう。自分はどこかの空き地にいる。近所かもしれないし、少し離れた場所にある大きな自然公園かもしれない。とにかく広々とした野原である。

服は長袖長ズボンなので多分秋か春だろう。いや、草が茶色っぽいから秋かもしれない。

幼い自分は三輪車に乗っている。ただの野原、なんの変哲もない三輪車、ただの動きやすそうな服である。なのに満面の笑顔で思い切り何か叫んでいる。

その脇に貼られているのは、同じ野原に脚を伸ばして座っている写真だ。こちらを向いて、やはり微笑んでいる。幸せそうというか、楽しそうというか、謎の全能感に満ちた微笑みだ。台詞をつけるとしたら「人生最高」とか「世界って楽しい」とか「私は神だ」とかそんな感じである。

なるほどなあ、と思った。

自分はけっこう苦労の多い人生を送ってきた。長くなるので書かないが、「よくここまで生きてきたね」と感心される人生である。この台詞には決まって「自殺もせずに」というニュアンスが含まれる。

自分も不思議だった。落ち込むことや自己嫌悪にさいなまれることはあっても、「また失敗しちゃったよ、駄目だなあ」というもので、自分を本気で責めることはない。「他人から見れば駄目なんだろうけど、こっちにはこっちの事情があるしなあ」と思う。だから落ち込んでいるときに、「自分を責めないで」「あなたは悪くない」と当たり前のように言われるとぎょっとする。別に自分を責めてなんていない。その一方で自分が絶対に悪いときだってある。鬱になるほどの自責の念と反省や謝罪は別物だ。どうして勝手に結びつけるんだろう。

この違和感の理由が分かった気がした。自分の中にはあの子供時代の絶対的な幸福感というか、最近の言葉でいう自己肯定感がしっかりと居座っているのだ。落ち込んでもこの自分が

「何が悪い、私は私だ、人生最高」と笑っている。

もし機会があれば遡れる限り昔の子供の頃の写真を見返すと、自分の心の根っこの部分が分かるかもしれない。

2026/01/11

Kohana

@kohana
エッセイとAuto fiction。 自分の言葉を取り戻すリハビリのために書いています。 少しでも楽しんでいただければ幸いです。