小児期逆境体験を経験した一家離散男性について

kokeshidayo
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Abstract

 本稿は学術論文の形式を持ったオートエスノグラフィーである。ゆえに、最初に打ち立てた問いに対する回答を一意に持ち合わせた論文ではなく、筆者の人生についての体験に寄り道しながら、一般法則の発見を、自身の体験を綴ることによって試行した自伝的文章である。一家離散男性には、その男性が"家族"概念について理想主義的か否かによって1. 保守的一家離散男性(CDM)と2. 革新的一家離散男性(LDM)に分けることができる。しかし、それは人間がその2種類として終始するようなスティグマ的なものではなく、小児期逆境体験(ACEs)や、その他の人生経験によって起こりうる2極という風に位置づけられる。結論として、筆者はCDMからLDMへの変化を経験し、現在にいたる。筆者の変化のきっかけはACEs経験と、自身の認識行動の嗜癖による。あわよくば、本稿がACEsの質的研究に資することがあれば幸いである。

Limitation

 本稿の限界として、筆者は理論化を試みているように見えるが、あくまでも先行研究の慎重な吟味なく議論を展開していることをご了承願いたい。それゆえに、本稿が提供するモデルも、以前の研究を踏まえたようなものではない素朴理論的なものに留まるだろう。畢竟、本稿は筆者のオートエスノグラフィーである。また、語り手である筆者が男性であることから、考察の対象・主語を”男性”にとどめたが、後にDiscussionで述べるように、”一家離散”(機能不全家族)という状態は男性以外の社会的性を持つものに一般的に妥当する可能性がある。この詳細については、Discussionの章を参照されたい。

Introduction

 "家族とは社会問題の合流地点である"という言葉が社会学の領域、とくに親密な関係・家族社会学でも聞かれるようになって久しい。一家離散男性とは、社会において存在する、家族の親密なつながりを失った、あるいは困難な男性を指す。このような機能不全家族で育つ子どもは、日本でも核家族化が進行するにつれて増加しているはずである。中でも一家離散男性は、理想主義と非理想主義の区別に従って、伝統的な家族観、すなわち、非核家族的(拡大家族的)で、みんなで助け合ったり、メディアが表象する”幸せな家族”像にこだわる保守的な場合と、そういった伝統的家族観とは対照的に、個人主義的で、理想像に囚われない場合との2種類に大別できる。ここで、前者を保守的一家離散男性(CDM: Conservative of Dysfunction family grown Men)、後者を革新的一家離散男性(LDM: Liberal of Dysfunction family grown Men)と仮称する。ここでも、心的態度としての保守ー革新、理想主義ー非理想主義の対立が表出する。この心的態度は、小説、ドラマをはじめとしたカジュアルなメディアでの家族表象の影響を受けうる以上、行動遺伝学的知見によってのみではなく、社会が影響して作り上げる人間の一部分として捉えることができる。これは同時に、機能不全家族において育った子どもが抱える理想主義的態度または非理想主義的態度もまた、社会問題の結節点としての家族のありかたが影響するとみなす筋道もあり得るということである。本稿では、筆者が自身の人生を通じて理想主義を克服しようとし、非理想主義に至ろうとするという筋道を経ている経験から、両面からの葛藤、特に、LDM男性が持つ葛藤について述べる。

Method

 本稿で自身の思想史を自伝的に語り、点検することによって、CDMとLDMのそれぞれの立場からの葛藤をオートエスノグラフィーとして描き出した。まずは、筆者の恋愛観がどのように発生したのかという点を考察し、次に、その発生した恋愛観がどのように変遷したのかを記述した。

Result

1. ”レンアイ”の発見

 筆者の初恋は5歳程度の頃だったと思う。そのころ、親にしばしば「好きな女の子はいないのか」と聞かれていたことを覚えているし、そうでもしなければ”好きな女の子”など存在しなかった可能性がある。親による社会化のひとつとして、”レンアイ”を仕込む教育がなされたと言ってもよい。筆者は、自動販売機でものを買える謎に直面して、それについての十分な回答を親から得る前に”レンアイ”を教育された。私は「好きな女の子はいないのか」という親の言葉によって生じた”好きな女の子”という欠如を埋めるようにして、”レンアイ”を発見したのである。その当時、恋愛対象となった女性については、卒園前に鼻から青っ洟がビロンと伸びたのを見て、萎えてしまった。なんにせよ、まずこれが、私の初めての”レンアイ”だった。

2. 分水嶺

 その後、ad hocに”好きな女の子”を補充し続けた私は、結果的に10歳頃に男性を恋愛的対象として見ることになった。これまでの”好きな女の子”に疲弊した私は、より安心できる対象に愛情を覚えたのであった。しかし、これもまた別に長続きするわけでもなく、クラス替えと同時に”好きな女の子”の存在へとまた焦点が戻ってしまったのである。このころ、不登校ぎみになっており、父親にPCを買い与えられた。PC、そしてインターネットの世界は、私の世界を急速に拡大し、好奇心を惹起させ、”レンアイ”から私を一気に遠のかせた。ここで一つの分水嶺に出会う。それは、「僕はこれから幸せな家庭をつくるのだろうか、それともそれをあきらめて、ずっと独りで生きたほうが楽しいのかな」という自問自答であった。幼いころから若年寄と評されていた私だが、この時点で「うちにはお金がないしパパとママはもう離婚しちゃうけど、僕は頑張ってお金持ちになって奥さんと幸せな家庭をつくろう」と思い至らせられてしまった。というのも、父親が私に繰り返し言うのは「お前はボートレーサーになるために産まれてきたんだ。」「お前がボートレーサになって金持ちになれば、美人の奥さんとかわいい子どももできるんだぞ。」だったからだ。”レンアイ”が結婚と強く結びついていた上に、父親の理想主義的な”滑りやすい坂論法”に、すっかり思考の前提を歪められてしまっていた。すなわち、結婚をすること、異性愛であること、幸せな家族をつくること、を疑問の余地のない絶対的なものとして前提する”社会化”を受けたのである。

3. 保守的一家離散男性(CDM)としての筆者

 CDMとしての筆者は、既存の”男性らしさ”を内面化し、食事の時ならば常に男性が払わなければならず、Chivalrousで、勇ましく、強く在らねばならぬという強迫観念に取りつかれていた。それは、貧困家庭の子ども、としての筆者がアクセス可能だった公立小中高校で、一般に身の回りの男性、あるいは女性によって一貫して称賛される心的態度であった。それゆえに、恋愛においての葛藤はただ一つ、「大黒柱として稼げるか稼がないか」だった。既知の通り、これは近代資本主義発達に伴って日本に根付いた近代的で、かつ女性差別的な価値観でもある。ただ、「ボートレーサー」という父親の夢は、筆者の”願い”と合一することはなかった。私の人生における”願い”は、恋愛を通じて頭角を現し、高校2年生においてようやく、人生の目標を他人によって奪われるということの異常性を理解したのと同時に輝き始めた。ただ、「ボートレーサー」に付随していた、あらゆる前提もまた、同時に「本当に自分が望んだものだったのか」と疑問に付されるようになったのである。

4. 革新的一家離散男性(LDM)としての筆者

 前節で述べたように、筆者は自身の多様な虐待体験のうちの一面、すなわち、自身で目標を決定して自分の人生を生きるということを制限される、一種の教育虐待に伴って、恋愛観を植え付けられていた。本稿では主題にならないため、詳細な言及を避けるが、筆者は幼少期逆境体験(ACEs: Adversed Childhood Experience)を経ている。先行研究によれば、ACEsは学校や社会での適応的行動(井出・今西 2023)や、将来の社会的経済地位(岡邊 2023)やこころの健康(山崎・野村 2019)に悪影響を与えることが知られており、まさに筆者が現状で直面していた、あるいはかつて直面した問題は見事にACEs経験者の特徴と一致している。本来はACEs体験を差し引いて、なお健全(と思われている)社会において有用な価値観の刷り込みが、結果的に個人の苦痛を引き起こし、本人がその”らしさ”から降りざるを得なくなるルートは、筆者個人だけではなく、時代の子(Z世代という言葉は使いたくない)の特徴であるように思われる。この、”らしさ”から降りる・降ろされる経験が、筆者がCDMからLDMへと変化するきっかけとなった。LDMとしての葛藤は、CDMでいるよりもずっと多い。LDMがパートナーシップを行う上での考慮事項のリストは、(表1)に示たとおりである。議論を一般化したいがために、「こういう悩みがあるだろう」というものを含めているため、すべてが筆者の経験に基づいたリストというわけではない。

 表1: LDMの考慮事項

  • パートナーはどれほど伝統的価値観を大事にしているか

    ("らしさ"競争に再び参入させられることにならないか)

  • 特に、パートナーの家族が一家離散でない場合、パートナーの家族と自身の価値観が合うかどうか。あるいは、理解を得られるかどうか

  • 相互扶助的関係をどれだけ性差別なく合意の上で成立させられるか

    (これはCDMの場合でも問題になる)

  • パートナーの家族が一家離散でない場合、自分の「居心地の悪さ」や、自分以外の人間からの「可哀想な人」「可哀想だけど頑張ってる人」というデクラスされる(ある人間や集団が想定する社会的構造の中で下に位置づけられて見られること)にどのように向き合う・対処するか

  • 自分とパートナー以外の人間に、自分たちのパートナーシップがどうみられるかを如何にして気にしないようにするか。

 このリストのうち、筆者が最も困難を覚えるものは「居心地の悪さ」である。筆者は、好き好んでACEsを経験したわけでもないし、自分のほかに、虐待によって、ニュースにもならず、世間の独善的な憐憫の対象にすらなれずに無念の死を遂げた被虐児たちは沢山いるので、私を憐れむ暇があればそちらに支援金を回してくれと、自分への憐れみを他者へ転化させようとしてしまう。これは、ACEsがもたらした自己否定の合わせ鏡が写す、”ずっと向こうの自分”をそこに見ているからなのかもしれない。葛藤は、特にパートナーシップをしている相手の家族が「あたりまえ」を振りかざせばかざすほどに深まる。自分は「あたりまえ」じゃない、という、ACEs経験を経た悪いあらゆる転帰のなかで共通のものであり、長く悩ませることになる端的な事実を思い知るからである。

Discussion

 本稿を書くことを通じて、最終的にACEsを体験することと、親による社会化が、一家離散男性としての人生に困難をもたらしていることが浮き彫りになったように思う。ACEs研究は、社会精神医学からの視点、経済学的視点からの研究が盛んであるが、いまだ青い分野であるように思われる。日本において、虐待見件数も、発達障害や精神疾患の数も増加し続けている。これは、筆者の直観によれば、核家族化の進行や、少子高齢化の影響と無関係ではない。極端な話をすれば、少子高齢化とは、高齢者による思想のガスライティングが容易な構造を持っているといえる。現代において、デジタル機器を自在に用いて情報を発信することが可能なのは、若者がその操作にたけており、高齢者はそうではない、という端的な事実による。では、そうした中でどこで伝統的思想を堅持しようとする高齢の騎士たちがその剣を振るっているのかと言えば、それは政治の局面である。参政権のうち、投票の権利を行使しているのは高齢者が最も多い。それは高齢者の、日本人口における基礎比率が高いということ以前に、そもそも政治への意識が異なるということに起因しているだろう。しかし、若者たちへの”投票啓発”は、政治的中立を志向する団体によって行われることはほとんどなく、多くが先輩者の政治的意図に裏打ちされたガスライティングによって、特定の政治団体への投票を暗黙に先導する手法が、エリート主義的・ポピュリズム的な団体両方からの啓発運動で一貫して存在しているようにさえ見える。家庭における影響関係もまた、家庭という”閉じた世界”における権力者や多数派のガスライティングによって、自分の家庭の当たり前が世間の家庭の当たり前かのように思うことはよくある。筆者も、自身がそれを克服す経験をしたし、筆者と関わってしまった者たちに、そういった経験をさせてしまったことも数多くある。権力者のいる組織という構造は、家庭も国家も同様であり、これもまた、"家族とは社会問題の合流地点である"と言われる所以ではないかと思われる。その中でも、機能不全家族という、機能不全状態の国家と相同な組織で生育された子どもは、機能不全ではないことを目指す・信じ込んでいる社会でどのように生きたらいいのか。本稿を通じて感じたことは、まず、1. なにがしかが”機能不全である”ことを認識すること・啓発すること、2. 機能不全であるものが、どのようにしたら改善するかを検討すること、3. 現に困っているACEsサバイバーに、自身の体験を「普通じゃないおかしなかわいそうなこと」として自分自身を今の社会的圧力のもとにデクラスせずに、前向きに生きるきっかけをなにがしかの方法で与えること、4. 今の機能不全の基に、新たにデクラスされそうになっている児童に適切な支援を与えられるように直接的・間接的問わずに働きかけること、5. ACEs研究を支援する・主体となって研究すること、の5点が、今後の課題となるのではないかということである。そして、これらの論点は、かつて黒人差別、女性差別に反対する人たちが、それを打ち破るために打ち立てた論点との相同性を持っている。最終的に筆者はCDM, LDMの考察から、このトンチンカンともいえる結論に至るのである。ACEs体験者である筆者自身、行動特性としての知的探究の嗜癖につながるものが祖先の代からあると確認している。ACEs体験者でありながら、今職を得て、大学に属し、専門職で日銭を稼げているのは、ひとえにこの資質のおかげといってもいい。これは努力というよりも、必然的にこうなった。つまり、筆者にとって、筆者の周りの人間に「賞賛に値する」と言われるものは、ひとえに筆者が偶然的に産まれ持ったものであり、その成果物ではない。ACEsであることも望んでなったわけでもないし、知能が正規分布の+2SDらへんにあることも自分から望んでそうなったわけではない。この自己はまったく、賞賛に値しないのである。

以上

参考文献

山崎, 知克., & 野村, 師三. (2019). 逆境的小児期体験が子どものこころの健康に及ぼす影響に関する研究. 厚生労働科学研究費補助金 (成育疾患克服等次世代育成総合研究事業) 総合研究報告書.

岡邊, 健. (2023). 小児期逆境体験(ACE)と社会経済的地位との関連 ─少年院に在院する男子少年とその保護者に対する質問紙調査に基づく検討─. 非行少年と生育環境に関する研究.

井出, 智博., & 今西, 良輔. (2023). 逆境体験(ACE)と肯定体験(PCE)が青年期の適応に及ぼす影響 ―通信制高等学校に通う生徒への調査を通して—.

@kokeshidayo
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