概要
私の昨今の実存的虚無感の原因は、社会的立場と自身の欲求の根本的な不一致にある。私は、私自身の好奇心の徒になりたいだけなのであって、社会的地位がもたらす貧困などの煩わしいもの一切が不要なのである。私は、ただこの容赦のない想像力、容赦のない好奇心、容赦のない創作意欲、容赦のない発明欲に忠実でありたいだけなのだ。
本論
私の人類愛は、これらの容赦のない諸要素とは別に、すなわち、欲求的な面ではなく、人格的面で備えるものである。あらゆる人類は、自身の生を他人によって挫折させられるべきではなく、利益相反する場合は落とし所を見つけ、自身の自由を獲得し、その自由に責任を負わなくてはならない。
私は、人格的面でたまたま有している人類愛と、人生を規程している欲求的面としての容赦のない諸要素が組み合わさる事で、偶然に、社会に甚大なる貢献をすることができると考えられる。レオナルド・ダ・ヴィンチの生は、今の時代ならば学生時代に投薬を求められるような性質をもち、その特性の遺憾なる発揮の仕方と、それに準ずる苦悩もまた持ち合わせていた。これまで、ADHDという名前で呼ばれている発達特性、他の人とは違った視点を持つ、脳の多様性のあらわれのひとつが時代に相対的に適応的だったというエビデンスが蓄積されている。まさに、私が欲するところは、この私の特性が遺憾無く発揮され、私自身の好奇心の満足が、いつの間にか人類の満足にも繋がるような、そういう適応の仕方である。
現状、そのような適応は困難だ。私の容赦のない諸要素は、社会によって押し付けられる様々な価値観ーすなわち、労働規範、勤勉至上主義、資本主義などーによって、常々妨害され、それが私の実存的欲求を全て破壊しようとさえするのである。
弁明しておこう、いや、普段の私を見ていれば皆は私がここで事故弁明する余地もないと思うが、私はナマケモノでは決してない。ただ、こんなにも、こんなにも日常の全てを、社会の一員としてやらなくてはならず、多くお金を持つものは多くお金を持ち続けてパトロンにならず、何も育つ余地もないという状況に、ただひたすらに打ちのめされているのだ。レオナルドが生きた時代のようなパトロンは存在しない。
人間はどこだ。どこに行ってしまったんだ。
「俺は人間を探しているのだ」
-シノペのディオゲネス