前書き
筆者の観察を,正当な科学的方法にのっとることなく,主観的体験を描くものである.実に個人的なものであり,挙句の果てには書いている最中に睡眠薬を飲んでいるので,論理破綻ともいえるところや誤字があるかもしれない.とにかく,読んでみてほしい,批判したり,自身の利用の仕方を反省したり,議論の種になれば幸いである.また,先行研究についてはあまり調査していないので,素手で理論を組み立てていることをご了承願いたい.
Abstract
2chやX, TikTokといったSNSにはより細かい区分があるはずである.2ch型のようなプル型のSNSをM,プッシュ型のXやTikTokなどのSNSはNとしよう.これらは,情報が能動的に与えられるか,あるいは人間が能動的に摂取するかの違いと,利用前に規範の共有を前提としているかいないかの違いがある.N型は,その構造がもたらす人間活動の変化を要求する.また,自身の選択がアルゴリズムによって奪われているという事実は,人間の虚無感を増悪させているという筆者の直観があり,最後にそれを述べることとする.
トピックを行き来する時代
インターネットリテラシーは,現代では"高次のリテラシー"と呼ばれる能力である(楠見 et al. 2015).しかし,日常語としての”インターネットリテラシー”という言葉自体は,さして目新しいものではないと思う.かつて,2ちゃんねるでは「荒らしに反応するやつが荒らし」など,とある板ではインターネット上における行動規範が広く周知されていた.まさに
「ハッキング」から「夜のおかず」までを手広くカバーする巨大掲示板
という,一面ではアンダーグラウンドな情報交換をする場であるがゆえに,むしろ規範化が起きていたように思う.たとえば,現体制の2chにおいても,”ガイド"が存在する(2ちゃんねるガイド:目次 (2ch.sc)).こうしたものを一切参照しなくとも掲示板を利用することはできたが,ローカルルールにかなわない行動をすれば「半年ROMれ」というような攻撃を加えられ,規範への迎合を余儀なくされる目に遭わされることがほとんどであった.それだけに,まずはSNSを本格的に利用する前に”読む”ことが必須であった.しかし,人でにぎわっていた「VIP板」は,その点である意味特殊な場だったと思う.いずれにせよ,この当時,”インターネット”を利用するときには高次のリテラシーを発達させる機会もあり,また,個人が自分自身で板を選び,摂食(接触)する情報のトピックを能動的に選択していた時代だった.ありていにいえば,”プル型”の時代だったのである.それだけに,”プッシュ型”のメディアであるテレビのユーザーとは,情報に接触する際に持ち合わせている規範の有無の違いによって差異化されていた.
当SNSと同型のSNSは他にもある.例えば,ほかのあらゆる掲示板,ルーム入室型のチャットサイト.どれをとっても,このシステムにおいては
高次のリテラシーを発達させる機会がある
摂食する情報のトピックを能動的に選択できる
の少なくとも2種類が共通点であると言えよう.雑談系はコミュニケーション自体が目的となっているので,ここではいったん考慮から外そう.
トピックがやってくる時代
先述までに,主体が情報のトピックを能動的に行き来するSNSシステムについて簡素な説明を施した.次は,昨今のSNS,特に,XやTikTok,Youtubeなどその他のサイトのシステムとこれを対比してみたい.まさにここに示されるのが,「昔のインターネットはよかった」の本質である,といわれるように努める.まず,”昨今のSNS”には,ユーザーの選好を学習したアルゴリズム(簡単にいうと,目的に対して適切に,かつ簡潔なかたちで回答を与える手順; 一般性が高いアルゴリズムは,よりよいものとされる.)が,利用者の”いいね”,”閲覧時間”,”足跡”を水面下で解析し,次にこの視聴者が見たいだろうと思うコンテンツを提示するようになる.つまり,トピックを自分で能動的に選ぶことの外注を強制的に行わされており,かつそれは「人間の認知資源をできるだけ簒奪し,自身のSNSに時間を使ってもらうことによって企業価値を高める」という,企業の目論見によって成立しているものなのである.ここでは,能動的な主体は幻想となる.能動的に情報を摂取するつもりが,いつの間にか様々な雑音を押し付けられ,認知戦争の被害者に仕立て上げられてしまうのである.最も重要なのは,2chなどでは利用前に仕込まれるはずの”規範”がない.ここで,(図1)を見てみよう
この図は,左側がかつての私たち,∅が能動的に板にかかわっていた様子である.昨今のSNSは,端的に言うと,個人である∅の傾向性をアルゴリズムを通じて雑多な情報を∅に送り出すシステムへと変貌しているのである.これは,先述で示したようなかつての”プル型”のメディア情報行動をしているというよりも,むしろいつの間にか”プッシュ型”のメディアで情報行動をしていることと変わらなくなってしまうのである.ここで,以前のプル型のSNSをM,プッシュ型のテレビなどのメディアをNとしよう.ここで起きているのはMからNへの移行ではなく,移動した先のシステムの問題によって,MであるはずのものがN化しているということである.
何が起きたか
私たちには,人間的つながりのなかで,ルールを守ったり,破ることによってとがめられるという経験をしてきた.これは人間が人間と関わる抽象的役割を果たし,規範の共有が行われてきたと言える.しかし,Xなどの登場,そしてスマホ利用者の増大から,「コテハン」を付けて常駐するのが当たり前の世界がもたらされるようになった.Twitter開設からさほど経っていないころ,2chのノリそのものではなかったが,開設当時のTwitterはみなゆるりと2chの規範意識を持ち,それなりに楽しくやっていた記憶がある.しかし,端末が普及することによって”コテハン”,”荒らし”,”もしもし”が爆増したのである.かつて,携帯をつかってまで2chに書き込みをするようなやつをバカにしていた連中が,ある時にこの技術革新のもたらした人海戦術によって押し切られ,ほぼアノミー状態になったのである.
昨今のSNSでは,利用のガイドラインが明文化されているものの,その徹底性は薄い.圧倒的に,2chよりも,秩序を守るための錨がない,または機能していない.結局,重要な情報の選択はアルゴリズムに依存する.そして方言が少ない.結束も何もなく,ただアルゴリズム付きのサンドボックスが与えられたのである.これでは,テレビやラジオなどの”プッシュ型”と結果は変わらない.私たちはプル型のSNSサービスを希求しているのかもしれない.インターネットが変わってしまったというとき,主要なSNSの構造が変化したことへの嘆きがそこにはある.しかし,かつてのSNSへのフィードバックされた影響も確認されている.これについては次節で説明する.
自我についての考察
かつてのSNSでは,自我はあくまでも未分化の状態であったとしよう.かつてのSNSでは,主体である∅は,∅の能動的手段によってトピックを選定していた.しかし,情報の矢の方向が逆転したSNSにおいては,∅が自分自身を自分で規定することが難しくなるという一方で,自分のアイデンティティを成立させたプロフィールをつくるなどの圧力下に置かれている.いわば,昨今のSNSにおいては”自分をそこに降ろす”必要があるのである.かつてのSNSでは,基本的に自分は匿名化されており,インターネット上の自我を構成する必要はなかった.しかし,これを代替しようとして∅が自分でアカウントを複数作成するにしても,そこに,アルゴリズムという第三者からの干渉を受け,視野が広まるどころかエコーチェンバーの世界に落ち込んでいってしまったりする利用例がある.あるいは,昨今のSNSでの一面のペルソナを確立した∅が,"首つり師”の被害に遭うこともあった.∅は,おかれるSNSのシステムに応じて,かつてのSNSとは異なり,
自分を拡散させる(一方で,個人性を”アカウント”という見える場所で確立する)
流れ込んでくる情報に身を任せる
という戦略をとらざるを得ないように思える.
筆者たちが「昔のインターネットはよかった」の本質は,このような,プル型メディアがプッシュ型メディアになるようになったことと,個人が匿名性からハンドルネームへと半匿名化の段階に退却したせいで,ネット上の自我を確立させてしまった,ということが挙げられるだろう.
最後に,それが現行2chにどのような影響を与えているか.今板を開いてみれば,かつてはつければ「クソコテ」とののしられるような行為が当たり前かのように受け入れられ,多くが”自分の名前をもって”書き込みをしているのである.
人間が自己効力感を喪失する時代
かつてのSNSは人間が自分で選択する,つまり,”その人次第性”が尊重されていたのである.しかし,今は人間の注意を集め,あらゆる情報に接触させることによって,"その人次第性”,難しく言うと,”自由意志”がないがしろにされるシステムが,レコメンディングシステムを成立させるアルゴリズムの登場によって正当化されつつある.その根拠は,ひとえに認知戦争,商業主義である.人間の認知をいかに誘導し,SNSに引き付けることで生じる広告効果によって生じる企業価値を最大化しようとする努力が,「人間が自分の行為を自分で選択するという自由意志の否定」につながっているのである.自由意志が否定されれば,「親ガチャ」「遺伝子」「能力」といった,自分の意思ではどうしようもない部分があたかも自分の人生のすべてを規定するかのような悲観的な思想,そして時には,障碍者は子どもを作るな,有能な人間はつくれ,といった素朴な優性思想など,あらゆる害をもたらす思想が跋扈するのを手伝ってしまう.スマホをもって,常にSNSに覚えている人の虚無感は,おそらくそれによって”自由意志を否定されている"ように思いこまされていることに起因している可能性がおおいにある.テクノロジーに,私たちの”自由”をささげてはならない,そして,”責任”を引き受けなくてはならない.
現在,テクノロジー倫理へのバックラッシュが生じており,シリコンバレーの良心は敗北した,とわたしは信じない.いま,テクノロジー業界が直面している問題は,テクノロジーの発展と認知戦争が,人間の虚無感を増悪させ,いまアメリカで主となり,そしてこれから日本で大きな問題となると予言できる”DOOMな思想”を加速するという自覚を持つ必要がある.
その先には,病理性の高い虚無感をSNSによって押し付けられたデジタルネイティブが悲観しながら生活しつつ,壮年期の世代がそれを叱責するといういびつな社会構造の影が差している.いや,いってしまえば,今生きている私たちはそのさなかにいるのだ.食い止めることができるのは私たちなのだ.