2024-04-05 新国立劇場中劇場にて。名前の通り時間(time)がテーマの舞台だろう。
観客席左右のエリアには人が入っていない。代わりにスピーカーが置かれており、入場のときから金物の音が薄く鳴っている。
暗転して舞台が始まる。ステージ中央には水が張っており、その背後には巨大なスクリーンが立っている。女性が笙を吹きながらステージを舞台向かって左から右に横切っていく。笙の音は、日本的なイメージというよりは、むしろ異世界や非現実的な空間をイメージさせる。入場中から鳴っていた効果音と合わさって、なだらかに舞台に引き込まれていく。
ステージ反対側から男性(田中泯)が現れ、水面を渡り終えた笙の女性とすれ違う。ここから舞台は3つの場面を織り交ぜながら進行する。
水面を渡る場面では、最初は水に触れることもできなかった男性が、木の枝を投げ入れるなどして水に慣れていき、やがてレンガを作って水面を渡ろうとするまでの過程が描かれる。水は装置や効果音によって、水面、波紋、雨などのさまざまな形を見せる。ぴんと静かに張った水面に川の水流の音が当てられるのは、矛盾しているようで少し不気味ではある。しかし、ここでの水はタブーや神話的なものというよりは、あくまで人の価値観から独立した現象として存在している。
2, 3の場面で語られる夢十夜と邯鄲は、どちらも夢の中で引き伸ばされる時間(夢十夜・第一夜は100年、邯鄲は50年)を主題にした逸話だ。舞台の骨幹を他作品に負うのは一見肩透かしに感じなくもないが、この作品の借用が、時間というテーマをより重層的に描くためのポイントになっている。すなわち、伸縮する時間だけでなく、ある場所において個別かつ同時に存在しうる時間の重ね合わせが提示される。たとえば夢十夜・第一夜の場面は、朗読される原文が男の視覚・嗅覚を通じて状況を雄弁に描写している一方で、舞台のセットはそれらの情報を排した簡素なものになっている。邯鄲の場面はより多層的だ。朗読によって語られる物語の時間、本のページをめくる音によって示唆される読者の時間、「極楽浄土」の夢のシーンでスクリーンに映し出される現代の街並みに流れる時間など、さまざまな時間の重なりが現れる。これは作品の借用という形でなければ表現しきれなかったものだろう。
笙の女性はステージ左から右へ、つまり夢十夜の場面から邯鄲の場面を横断する。2つの場面の時間軸上の順序関係は置いといて、笙の女性がある意味、普遍的に流れる時間そのものの象徴になっていると言えなくもない。そして注目すべきなのは、男性がその流れに逆行しようとしたことだ。舞台の時間は伸縮し重なるが、逆方向に流れることはない。男性の試みは破綻して終わる。
他の高谷史郎の作品と異なり、舞台セットや小道具の少ない抑制された舞台という印象で、観ていて心地よかった。また、場面展開を(情動的に)表現する手段としての音響をほとんど用いず、あくまで場面の描写に徹していたのも、坂本龍一のこだわりのようなものを感じられて良かった。田中泯のパフォーマンスは、抽象的な舞台設定の中でもあくまで人間的な、パーソナルな演技で、その対比が素晴らしかった。