晩冬の雨の日から始まった私の「INTERSTELLATIC FANTASTIC」も、朦朧とする温かさの中、会場のそばで珊瑚のような色の花が咲く時節に至った。
毎回私はFANTASTICSを観て取り乱している。しかし3回目にしてできるだけ取り乱さないすべを身につけた。コツといえば、なるべくFANTASTICSを好きじゃない人たちがいる場所を探して開演前までそこにいること、おとなが多い場所に身をおくこと、FANTASTICSと何も関係ない本を読むことなど、要はFANTASTICS「以外」の世界と必ず接続しておくことだ。その甲斐あって私は取り乱しを最小限に抑えられた。
座席はスタンドBで、ここは八ヶ月前に座った席であり眺めやすかった。これまでのツアーで座ってきたサイドスタンド(の同じ席)から観た景色は鋭い角度ゆえ、見えたものを自分独自に切り取るしかなかった。けれども今回はスクリーンにうつるものも含めた彼らの宇宙の正解が見えそうで、結論としては素直にスクリーンとパフォーマンスを併せみた。絶対に肉眼で彼らの小さい身体しか見ないのである!と偏屈な態度ををつらぬくのも一興だが、せっかくの便利なものを素直にあじわってみたら、結果はそれで良かった。
スクリーンにうつる宇宙と自然は、時にFANTASTICSを飲み込もうとしていたからだ。
「INTERSTELLATIC FANTASTIC」のオーヴァーチュアは、澄んだ星々の声を集めて解き放つ儀式のはずだ。それをSTRABOYSと呼ぶはずだった。発進した宇宙船は光りの速さで未踏の惑星に着陸し、一人一人が渾身の硬質さと影、そして羽衣みたいな光芒を羽織って登場する。
てっきり今回も、その手筈が踏まれるものだと思っていた。
冒頭から彼らに驚かされた。このたびの序曲は、禍々しい唐突さを孕んで行われていたのだ。
音も拍も存在しない宇宙を、どこか忌まわしいサウンドが割った。
そして宇宙服を纏いマスクをつけたまま素性を隠している青年たちが、漆黒の宇宙空間へやにわにあらわれて、客に悲鳴をあげさせていた。
煤けたような金髪と、衣装越しのなで肩。
おにぎりみたいな逆三角の頭と、できあがりきった骨格。
実年齢に、あえての稚気をまぶした退廃美。
いずれもマスクと宇宙服越しに、とてもわかりやすいシルエットだ。
澤本夏輝。世界。堀夏喜。
FANTASTICSを代表する踊り手3名の出である。
鋭いきな臭さが充満する。いつもとようすが違うSTARBOYSの序曲の不吉な変化に客席のあちこちで短い嬌声があがり息を呑む音がいくつも聞こえた。その後、佐藤大樹・木村慧人・瀬口黎弥と出が続いた。
こうして見るとパフォーマーたちはまるで、ヴィランだ。
ボーカル不在で宇宙を思いのままに歩く男達の不敵なパフォーマーショウが始まっている。私はこのとき、「DARK MATTER」をここに持ってくるという大胆な演出変更が起こったのか?と抱いた。そうなるとまるで地殻が動くようだなと思っていれば、べつにそういうわけではなく、宇宙船からぶじ、八木勇征と中島颯太が降り立ってきた。
9人勢揃いとなり、「STARBOYS」である。
すわ敵か!?と見せかけて、FANTASTICSはやはりこの星に、愛されに来たのであった。
お客を安心させるように歌いはじめた彼らは、歌うこと、踊ること、そしてそれがやがて人々の足下や人生を照らす星になることを主たる責務としている。私はこのとき、いつかヴィランのFANTASTICSを見たいと思った。正義や愛をたまには棄てるのもいいのではないかと思った。あるいは、いつも中島颯太と八木勇征を守らなくてもいいのではないだろうか。いつも仲間を守り続ける者も、いつだって怒らない者も、その責務を放棄したときに生まれる気だるい怒気のような何かが観られたら、さらにFANTASTICSに潜む陰影が深くなるのではないか。たまにはお互いを敵に回してみるのもいいのではないか?などといった夢にふけりたくなる、演出の工夫であった。
また、ツアー直前に発表されたアートワーク、-彼らの頭がコーヒー豆であったりどうぶつであったりにすげ替えられている-どこか禍々しくもシャレの効いたアートワーク、それらががスクリーンに映し出されてパフォーマーとともに踊り狂っていることを、私は3回目にしてようやく気づいた。STARBOYSのパフォーマーの時間において彼らもメンバーとともにファンクに陽気に踊っていたのでとても面白い。こんな時間があったことを初めて知った。マルジェラのコレクションでこんなアートワークがなかったか…いやどのコレクションだっけ……と悩ませられてしまう、まるでトップメゾンのコレクションで見られるようなインパクトある不意打ちのようなアートワークも確かに彼ら自身で彼らの旅の仲間なんだと理解した。
「OVER DRIVE」では澤本夏輝のヴォーグのような表現が見られ、このあたりで私はようやく中島颯太が赤毛になっていることを悟った。「Tell Me」が始まれば客席のあちこちからかっこいい!!かっこいい!!といった素直な感嘆が漏れていた。挑戦的ななやましさ、清潔さで咽せさせるような煙くさい芳香が漂う彼らの今や代表歌だが、その現代的な艶は技術と丁寧な取り組みから生まれるものなのだなと改めて思った。音源ではなく生バンドで踊る彼らは、低音がその場で丁寧に刻んでくれる拍を、丁重にそして自信を持って乗りこなしていく。なかでも丁寧に踏みならすよう作られていく「TO THE SKY」-氷点下の無重力の世界を勇敢に駆けることを謳った歌-を味わいながら、私はバンドサウンドにさらにシンフォニックなふくらみや想像が加わると、二人の歌や彼らの踊りは如何ほどに大きくなるだろうかと思った。それほどに中島颯太と八木勇征の声は豊潤だったし、宙を駆けるように踊るパフォーマーたちもダイナミック且つ俊敏だった。Runnin' Runnin'...のフレーズで、一人一人が照らされてゆく照明の効果も遺憾なく発揮されていた。中期FANTASTICSの甘みと若さと洗練された婀娜をあくまで媚びぬままテクニックひとつで表現する「Drive Me Crazy」ではメンバーたちがカメラに向かってチャームをアピールし会場が甘い悲鳴でいっぱいになるサービスも行われる。その折、澤本夏輝は無重力下で身体を守る宇宙服のファスナーに指先を引っかけて、隠し持っているもののかけらをさりげなく零そうとしてくれたが、あくまでそれはあの青年の気まぐれにすぎずもちろん今日もそれはお預けにされていた。この曲のパフォーマーショーケースでは澤本夏輝はワックを披露してくれたり、堀夏喜がアニメーションのような動きをみせてくれたり、世界はフラッグでたわむれに遊んで下さったりした。これは彼らが武器として使える一曲であり、熟れた青年たちはステージの上にもうひとつ生まれた高い舞台で、勢揃いして歌う。そのさまは、地球以外の文明をそのままコピーしながらまったくちがう濃度で生きる星のクラブに彼らがカチ込んで、FANTASTICSが異国ならぬ異星のクラブを乗っ取りそこで悠々飄々と踊ってるみたいで、ただでさえ特別な一曲がますます婀娜に尖っていた。ステージの電光にきざまれるdrive me crazyの筆跡も小粋だ。
ツアー大詰めを目前としているので、FANTASTIC ROCKETがこの地点から次へとる軌道を知り尽くすお客も増えている。
全パート磨き抜かれた「INTERSTELLATIC FANTASTIC」において、もっとも逞しい想像力が漲っている時間が目前だ。
その事実は周知されていながら、新鮮なよろこびをもって迎える客も勿論たくさんいる。
「INTERSTELLATIC FANTASTIC」第二幕。
水の惑星の場である。
資源が豊富な星に降り立った青年たちは宇宙服をぬぎすてて、水の国で呼吸をとりやすい衣装に着替えた。そして「サンタモニカロリポップ」でいつものように水中にもぐって、彼らはたやすく呼吸を始めた。彼らはまるで気泡のようだった。歌を存分に使って、自由に遊び倒していた。青年たちの指先から泡がうまれて、汗がうたかたにかわり、水の中で生まれた吐息を踊りとして魅せてみせる。
しかし此処は、水が命を持つ惑星だ。
空気、水、光り、重力、いかづちなど、FANTASTICSはこのツアーにおいて人間のすぐそばにあるけど見えないもの、当たり前にそこにあると思われているものに命を持たせることの勝手をあますところなく理解しきり、実現させた。
私はスクリーンがほぼ正面から見える席だったので、彼らが降り立つまでの水の星が、いったいどんな場所だったのかを見た。
彼らに生かされなくたって、そもそも水や川、海も空も、そもそもが、生きていたのだった。
彼らが踏破するまで、水の星は水の星らしくそれぞれが命をもって、静かにのびのびと生きていたのだ。
つまり、取り立てて彼らが水に命やらを与えたわけでもない。
要は、水の星にに青年達が「許可なく立ち入った」ともいえる。これは侵入行為だ。べつにFANTASTICSは星に願われて水に望まれてここに到達したわけではない。私はスクリーンのなかでいきいきと生きている水や大海を見て、そう気づかされた。
彼らは、もとより水が生きていた星で、自由に、つまりは好きに、あるいは「勝手に」踊っているのだ。
青年たちが水滴、気泡をうみだし、うたかたとなって海にいのちを、水に生命を与えているようで、生命はもとからあった。
そうとはしらず彼らは自由に海という宇宙で遊んでいる。堀夏喜はじめパフォーマーたちは泡そのものになっている。泡はあらかじめそこにあるのに、だ。FANTASTICSをして「爽やか」という言葉でよびたてるにはもう遅すぎて彼らはとうに込み入った成長を遂げすぎている。それでいて爽快なイメージをくずさぬままフレッシュに歌われる「flying Fish」で彼らは、とびうおみたいにどうのこうのと歌って踊っているありさまだ。のびのびと舞い、彼らはすっかり水に祝福されたような気分になっている。
有頂天になっている青年たちの後ろで波は高く変わる。海は次第に黒い色を帯びて、水しぶきに怒りが孕む。水が、大蛇に変わっていく。
そのことに気づいているのは世界と澤本夏輝だけだった。
海底へつづく道に、それとなく澤本夏輝ひとりが残る。
澤本夏輝と水、海、惑星が相対する。
怒りを孕む海を鎮める舞踏。
「INTERSTELLATIC FANTASTIC」第二幕水の惑星の場。
FANTASTICSのあめのうずめ澤本夏輝が単独で担当する。
水の国最大の見せ場である。
私は澤本夏輝が、あるときは、ジュゴンやあるいは白鳥であったり、絶滅危惧の水に親しんだいきもののように見えた。はたまた天女、または巫女。降霊。巫呪性やプレアニミズムを見いだすには彼の心身はリアリズムが強かった。踊りで語りかける相手は海の神様か、川の神か、水底に棲む龍か。彼だけが神様と踊りでお話できるのか。龍神を降ろすのか、あるいは降ろす踊りではなく鎮める踊りか。神呼び、神寄せの踊りか。毎度見おわったあと、多くの言葉が巡る澤本渾身の一幕であり現状の澤本夏輝の一つの到達点である舞踊を見られる贅沢な時間だ。澤本にはこうした贅沢さを引き受ける度量がある。水の質量に負けない心身を持つ。
今日も澤本が天狗のような手を宙空にかかげれば、水の炎が燃えるようだった。片手をやすやすとついて、恵まれた足が旋回する。澤本は水底を、まるで海獣のように、あるいは青年のそばを心優しい海獣がともに泳いでくれているように、やわらかに回遊する。長いリーチを目一杯使って、竜神と語らう。水神さま、海の神様と語らうことができるのは澤本だけで、神様にここで踊ること、ここで踊ったことをおゆるしいただくために180センチの体躯を捧げているようだった。水に酔うような時間だった。そして澤本は、いち早く友の元へ戻る。水の脅威も知り尽くすからだ。水底の道を駆けて仲間のもとへ戻るとき、青い光が彼の完成された身体の輪郭をピリリと辿る。そのひかりはまるで、水底の龍のうろこが彼のはがねのような身体にこっそりと入り込んだようで、これまた実に禍々しかった。
この青い電流のような光がバンドメンバーの奏でる音まで辿ったところで「Hey darlin'」である。このとき、水や海のゆるしを得たFANTASTICSたちの野太いか華奢かでいえば華奢なほうのラインがひどくクリアになり、写真で切り取られたように鮮明に変わっていた。自由に呼吸をすることをゆるされたのだなと思った。澤本が踊ることで語らった神が、彼らをゆるしてくれて、FANTASTICSがまるで、龍の上で踊っているようだった。人の棲めない、水と水のなかで生きる生命だけが生きてきた星。そこでFANTASTICSは人間で居られる。
それに味をしめた彼らは「Baby Rose」で真っ赤に燃えさかりはじめた。スクリーンに血潮みたいな赤いしぶきが満ち始める。
というかなんで水が燃えてるの?なにこれ?火を付けましたか?この人ら、惑星いっこ燃やしたってこと?そんなに涼しい顔をして?そうですよね、「爽やか」の仮面をかぶって星ひとつ燃やすくらいのふてぶてしさと覇気と殺気としれっとした非情がないと天下なんかとれませんよね、ドームにいけませんよね……と思った。
とまあ、もしもFANTASTICS舞踊学概論で「INTERSTELLATIC FANTASTIC planet of Waterについてレポートを書け」と課題が出されたならば、私ならこういったかんじで書きます。そんで世界先生から0点をくらい、単位を落とすとおもう。
ところで「Baby Rose」において澤本は歌で描かれてる光景そのものを踊る。彼の言葉を踊ろうとする姿勢がひときわわかりやすく表出するナンバーだ。そこで堀夏喜だ。堀が踊るのは言葉だろうか。そうではないと思う。では堀夏喜が言葉の間をや言葉にならない気を踊っているかといえば、それもちがうと思う。
このあたりで私は、堀夏喜は一体何を踊っているんだろうという疑問に直面することとなった。
たとえば澤本夏輝の踊りを見ることを自らに課すファン人生を歩んでいる人は、およそこの問いに直面することはないのではないか。
その命題は「It's all good」で顕著になった。新しい季節の色をというフレーズを担当するのは木村で、みんなが精霊みたいに、たゆたうように踊っている。この歌の踊りの正解が誰にあるかと言えば、それはそれぞれにあるとおもうが、堀はこの踊りを踊る自分をどう見ているのだろうか。堀夏喜の炎のような怜悧さ。さえざえとした体のなか奥でひっそり燃える、踊りと仲間への愛。空気を切り裂くような角度。この歌を踊るにあたって、堀が花を咲かせるにはもう少し「寒さ」が必要となるのかなとおもった。ぬくもりじゃなく。
「Turn to You」「Winding Road 未来へ」と続くのが、八木勇征と中島颯太の時間である。ふたたび宇宙の漆黒を漂流しはじめたステージで、中島がグランドピアノの鍵盤に指先をおとす。すると、暗い水底の道の輪郭を、ひかりが走った。照明がふたりがここに生きていることを証明した。
スクリーンを見ると、星が瞬いている。それらは大きな惑星じゃなくて、真っ暗で、名前もない何者でもない星たちだ。どこにでもころがっていて、名前ももらえず、誰にも愛されず大切にされず、ささやかな光芒しか放てない。広い宇宙の名前もない昏いひとりぼっちの星々に、八木の声が優しく、そしてそばにいるからといわんばかりに張り裂けそうな力強さもこもり、彼はただ名前もない星に寄り添っている。八木は、誰かを愛することが大好きな青年なんだろうとおもう。「Winding Road 未来へ」になると夕暮れのような、宙はオレンジ色の光芒を放ち始める。ふたりともレースのふくを着ていて、とても似合っていた。やがて彼らを包むスクリーンは照り返されて青く澄み渡りはじめ、七色の虹がかかる。愛を与え続ける彼らに、空からささやかな優しさが満ちた。
そして八木と中島が対話をはじめる。中島は「親戚で会場が埋まった」というような謙虚なたわむれを見せていた。また八木は、男性の声援が聞こえたことを慶んでいた。そして八木が「二階も三階も埋まってて…」と語ると、私の隣の席にいた少女ふたりは三階なんかないよねと述べて、八木の曖昧な発話の齟齬を指摘することを忘れていなかった。中島の講話はつづく。好きなものを大切に強く楽しく生きて欲しいといった若い世代へ向けた説法がしずしずと語られた。
また(記憶が曖昧なので、このタイミングではなかったかもしれない)いささか唐突に、八木が直近で台湾で過ごした時間の特別さやそのとき感じ入ったことを感謝の心を込めて伝えてくれる一幕があった。それに続いて、中島が講演をはじめる。
中島はおもむろに「ここにいる皆さんがいなければ、僕たちは本当に何もない」と切り出して、切実さを訴え始めた。い、いきなり何だ…?と思った。彼の言わんとするところはわかったうえで、個人の能力や授かった才能・通俗的な容貌の美醜といった点・身体に宿る力・重ねてきた人生や行動や努力をみれば、けして彼らがそのように育てられている気はしないからだ。その後、時世下で彼らが身を置く産業が負った傷のことなどを語り、みんなで追いかけ続けている夢のことを言い、永久欠番のメンバーの名前をあげる。そして彼らが切ない背中に背負っているもののことを客に伝えながら、中島颯太は「必ずまた会いに行きますので、必ずぼくたちに会いに来て下さい」といったような言葉で締めくくった。文節は前後しているがニュアンスはこういったことだったと思う。そのような思いを訥々と訴えた中島の切実さは理解した方がいいと思った。前回のコンサートから今回のコンサートまでで、日々いろんなことが起こりいろんな仕事に取り組む。変化やおもわぬ出来事に直面しながら都度あつまりをもち、問題解決をはかるのだろう。そんな一端が見えた中島颯太のスピーチであった。
それにしても、会いに行くとはこれからも興業をうちますということで、会いに来て下さいとは催しものの切符を買うて下さいということである。その構図ですと、見とるし聴いとるが会うとるとは言わんくないか?と、こうした機会で再三使われ続けている「会う」という語が常々帯びる違和のことを思っておれば、「アプデライフ」が始まった。すると彼らの頭上で拍動をくりかえす「F」の核が光って、水底の道に雷鳴が走っていた。心地よくも勇敢な声がポップにはずんでいる。情報や愛情が過多の世界、それでも大事なことをさがして前をむくこと、それがいかに地道さを必要とするかという現実を編むアプデライフをうたう。中島と八木のそんなひたむきさを、彼らの核が祝っているように見えた。だけどやっぱり私はここに、彼らに「逢いに」来た。というか会うの意味はここではそうしたほうがよく、これがいちばんファンとFANTASTICSにとって「安全」なのだ。安全に愛してくれるファンのことを、彼らは何より愛しているはずだ。
そして水の惑星を燃やした(?)FANTASTICSは、音の惑星に辿り着く。マゼンタの光線が彼らを刺す。彼らを揺るがす音楽を構成する情報が緑色の言語となってスクリーンをひた走り、「INTERSTELLATIC FANTASTIC」三幕一場である。
7Universe。パフォーマーによるダンストラックがはじまっていた。
澤本堀ペアは軽々と踊りこなし、世界と木村のコンビはゆったりと踊りこなす。佐藤を呼ぶと地底から飛び出してきて、瀬口は地の底からゆっくりと這い上がってくる。オリジナルのアパレルの服を着こなしている世界はひどく清潔に見えた。このたびの彼らのショウはいずれも軽々と、隠し持つもののすべては見せて下さらない。すべては万全でありながら注意深く執り行われて、勿体ぶっているとはいわないけれど見せるべきものだけを見せてくれた澤本は、膝を突いて木村をおくりだしせりへ消えてゆき、木村はそれを受けて澄みきった踊りを踊っていた。
LDHなど心からどうでもいいと思ってる身内に常々「ファンタはいつまでもは踊れんぞ」と指摘されるのだが、まあファンタの全てがいつか終わったとする。その終わりは、案外早くくるのかもしれない。というか終わりの日は思っているよりずっと早い気がしてならないのだが、まあそんなときがきたとして、この人は在野の踊り手として踊っていくのかな、体に貯めてきた宝物を案外たやすくわけて惜しみなく与える大人になるかもしれないな、と、後ほどChoo Choo TRAINでお客と体で語ろうとする澤本夏輝を見て思った。
たたみかけるように音楽は続き、澤本は客と踊ろうとして、堀はというと、客のとる拍を聞こうとする。客に愛ではなく拍を求めている。音をたどれば堀の愛が辿れるのかもしれない。堀夏喜はしゃれた煽り方で、俺たちにリズムと踊りをくれと伝えている。己たちの踊りを愛してくれる者たちの声を確かに聞こうとしてくれている。このふたりはそのアプローチに違いがある。それが踊りの違いとなってあらわれるのかもしれないなと思った。
堀夏喜いつも一秒先の世界にいる。一秒先の音を一人だけ速く受け取る力をもっている。それを自由と呼ぶ。すべての踊りにおいて振りをつかみにいくのが堀は一人だけ早い。それに対して澤本は、今を一秒でも長く生きてくれるような踊りだ。
そんなスピードに生きる堀は、では何を踊っているのか、私はまだつかめずにいた。言葉や声のかわりに踊っていることはわかるけど、何のために踊っているのかもわかるけど、堀は今何を踊っているのかなと私はずっと思った。「Can't you give up」などでは全員そろって小気味いいファンキーな踊りが見られ、「タルトタタン」では、客に振りを伝授する木村がタイミングを間違えるなどの笑いも起こった。
音の惑星にくると、彼らが彼ら本来のすがたでいられる衣装を選んでいる。統一性ある衣装ではなく、個のチャームがぎらりと光り、それは彼らを通俗的な、つまりふつうのあるがままの磨かれたひとりの青年の姿に戻す。遊び心あるデザインのスタジャンを羽織った堀夏喜を見ると思い出す歌舞伎役者がいる(というか誰も言わんけどメチャ早乙女太一くんに似てるよね。和服を似合わせるのは少し時間がかかりそうだけど、和物のタテとか全然興味ないんかな?ここが新感線と縁がないのは自前で匹敵するものをつくれる自信があるからか?)。青白さ、瓜実顔、下ぶくれ、細面なところもよく似ててその人は今36歳なので堀よりひとまわり上だが、今の堀の年齢のころから堀のようになんでもできて堀みたいになんでもうまかった。そして堀みたいに何にも隠さず、裏が表にそのまま出ていて、堀よりずーーっっとつめたかった。そうした点は今もかわらないままで今もつめたく、ますますうまくて充実している人物。堀を見てたら彼を思い出す。名前を中村梅枝といいます。この六月に父親の名跡を襲名して名前が変わる。愛情の温度の調整法が独自なだけにすぎない堀とちがって、この人はいつも体のなかがつめたい。彼もとっくに結婚してこどももいる。堀夏喜も、芸道的にも人生的にもああいう道をいくのかなあとふと思う。おそらくずっとうまく、ずっと成長していって、多分堀はそのころになると体温が少しだけあがるかもしれない。
「Choo Choo TRAIN」では前述のとおり、澤本のみちびきに従ってみれば受け取れるものが多彩になった。今はまだFANTASTICSのために踊る澤本しか想像できないが、いつか「パフォーマー」を放棄して在野のダンサーに戻ったりするのかなと思った。30年くらい先に町のダンス教室の先生になってる未来。そういえば、ラストをかざる「ギリギリRide it out」だけコンセプトからずれてないか?と首をひねってしまうが、いや案外そんなことはないかもしれない。そして、もはやだれも、演者がふくを脱いでもどうとも思っていない。いつも木村くんのぬいだふくを見てたら幕が終わるので、今回はバンドメンバーのところにいる澤本をただただ見た。そのまま幕は下りた。
彼らに再び戻ってきて欲しいと呼ぶ声がいくらなんでもどうでもすぎたので笑ってしまった。すこし時間があき、あいまいなアンコールの声にこたえた男たちがふたたび踊り始めるのは直近の新曲などだ。「DARK MATTER」を踊る堀は、じつに踊りやすそうだ。この歌こそ自分の言葉といった踊りだった。堀が何を踊っているのか、手がかりがここにあるような気がした。
そして宴が終わったあとに、青年達は気さくな対話を構築しはじめた。このとき世界は「イケメンを観に来ただけやろ。歌とダンスを見ろや」と、いざ演者とファンが愛情と愛情を交換をせねばならぬ機会にあたり、その姿勢において曖昧さを見せたファンに対して、正直なおもいをたわむれにまぶして伝えていた。これを聞いて私はこのとき、いやーイケメンも、歌も、ダンスも、見れば見るほど見えんくなるだけやろ…と思った。「アンコールをするならする。しないならしない。こちらのモチベーションにも関わる」とも訴えていた。
もろもろの告知をこなしたあと、佐藤大樹がまたも、全員におもしろ自己紹介を行うことを強いた。けれどこのたび、ほとんど全員が佐藤の投げたいい加減な球をキャッチするのを放棄していた。球がむなしく転がったのを私は確かに見た。堀など佐藤に適当に球を投げ返したあと、佐藤が与えた課題をに無視を決め込んでいた。木村は今日も自身の愛らしさに自覚的なギャグを披露し、このとき澤本夏輝は「みんなのたこやきお兄さん」といったようなことを言った気がするがよく覚えていない。
「INTERSTELLATIC FANTASTIC」の幕切れを飾るのはFANTASTICS9だ。スクリーンには春野。萌える土と若草が見える。旗にプリントされた花はファンのメタファーで、ファンたちが旗をふると宇宙のたもとに花が咲き乱れる。花は枯れるし、よその人に摘まれることもあるし、水をあげれば長生きもするし、風が吹かれれば花粉がとび別の何かに命を与えることもある。ここで咲くということを放棄することもできるし、花を咲かせるのを自分の意思でやめることもできる。一方で、宇宙を漂泊すると決めたら彼らはもう戻れないわけで、かといって咲いたまま動くことができない花がやれることにも限界があるよなと思った。
私は花のひとつになることを放棄し、旗はふらなかった。そのかわり今日もこの歌を、こっそりと手を合わせながら見守らせていただいた。
幕が下りる。終わりの時間でも、青年達はこまやかに愛情をおくりつづけている。板と幕の隙間まで愛を満たすことを、最後まで絶やさない。
そんななかで、一人だけ立ったままシューズの先を見せている男がいる。
堀夏喜である。
幕が今にもおりようとするとき、そのきびすはだれより早く返っていた。ああ、仕事が終わったんだなと思った。いい仕事をできるってすばらしいことだ。
一頭のモルフォ蝶がさまよって、澄んだ瞳とバタフライエフェクトという言葉でおわる「INTERSTELLATIC FANTASTIC」。
堀くんは、どれを踊っているときが一番幸せですか。いつも幸せのかたちが違うような気がするのは気のせいでしょうか。堀くんが誰がすきで、何のために踊ってるかはわかったつもりでおります。誰のことがどれほどすきか、踊ることの愛がどれだけ強いかも、見たこと聞いたことある範囲内で知っているつもりですが、あなたはいつも何を踊っているのですか。
私が極めて意識的にFANTASTICS以外のものと接続しつづけるのは、取り乱すことなく落ち着いてこの答えをさがすためだ。
私は、こんな夜をありがとうと思った。匂い立つ生命の踊り。 歌は絹みたいな青い吐息。若草が見えて、宇宙で踊れば花が咲き、これは祝祭であったとおもう。さびしい男の子たちのさびしい祝祭。
宙を漂流し、FANTASTICSはかなたの海底で漂泊の途中にある。
「夢」は叶うだろうしそういうレールは敷かれてるんだろう。今回のロケットもそこを駆けた。なのにFANTASTICSはずっと佇んでるように見える。魂は9人のままで、9人でどこかに佇んだままだ。
多分どこまで遠いところへいってもこのままで、彼らはどうやっても埋まらないものをかかえていくんだろうなと思った。フラッグの花がたくさん咲いて、会場はほとんど花で埋まっている。花はもっとたからかに咲いてもいいのかもしれないなと思った。幸せそうだけどすこしさびしそうな祝祭。漂泊の青年たちがかかえる、埋まらないもの。彼らに何かできることといえば、ただひとつ。
祝福だけではないか。
お花のようにかわいいファンたちにできることが、そこにあるのではないか。ファンたろうたちはそこに挑戦してもいいのではないか?とも思う。
メンバーの一人が、どうかおれたちが踊ることとおれたちが歌うことを見てくれそれを愛してくれそれを求めてそれを叫んでくれと訴えた声が耳元で繰り返される。俺を見てくれと叫び続けた青年たち。私が見ているのはなんだったのだろうか。見たのはいちはやくきびすを返したときの踵。踊りきったあとの踵の、その痛み。一刻も早く舞台裏に戻り、いち早くケアしないと明日やこれからの仕事に障るであろう、身体のすべて。踊るためにつくっている背中。息、呼吸に眼差し。動く筋に、どこまでもふつうな一人の人物がどれだけ幽かかということ。あなたは何を踊っているのですかという答えが見つからない問い。私はそんなものを見ている。
如何ほど見ても見えるわけがないものを、私は、ずっと、見ている。