FANTASTICS LIVE TOUR 2024 "INTERSTELLATIC FANTASTIC"0310福岡

kokonoe
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※間違い、記憶違いもあります。

右を向いても左を向いても「女たちの福岡」だった。行きの機内の乗客も九割方女性だった。這這の体でマリンメッセにたどりついたが、開演時間を一時間間違えた。なので博多港周辺でツシマヤマネコのアクキーを買ったり櫛田神社浜宮をのぞいたり博多ポートタワーにのぼったりした。

このたびの座席はスタンド席で、方角・位置いずれも代々木体育館で拝見した際と同じだった。もし次回の大阪城ホールもこの割り当てであれば、ファンタFCの言い分は「おまえは一生ここで観てろ」なんだなと理解する。

宙には今日も、Fのマークが浮かんでいる。のちほどこれの正体を理解することとなる。照明や音楽によって会場に巡らされた結果生まれたカラーやトーンは、これから宇宙へ旅立つ平野や未踏の惑星の荒野というより、私には海底のように思える。なんならプールの底や水底。清涼な水のなかにいるようだ。ステージからは宇宙への軌道も、いつもどおり伸びている。撮影はもちろん禁止なので、手帳にFマークを描いてみた。そうすると若者達による前座が始まったので見た。踊っている若者のなかにどうやらもう固定ファンがついている人たちがいるようで、一部客席も盛り上がっていた。確かにアピール力もまとまりも卓越していた。

ステラというロボットがSTARBOYSの歌詞を引用したせりふで客を導き、宇宙船のコクピットを模したスクリーンのなかにモルフォ蝶が飛んで消えてゆくのが「INTERSTELLATIC FANTASTIC」のはじまりの合図だ。そしてレポを拝読してぜひ見てみたいなと思っていた「INTERSTELLATIC FANTASTIC」のovertureが、福岡で復活していた。今から前人未踏の彼方へ挑む武装としての宇宙服を着たメンバーがだれなのか、ひとりひとり明かされてゆく序幕。このパートが代々木公演では省かれていたが、このたび復活していた。私の席からだと彼らが歩いて立ち位置に悠々とやってくるのが見えた。ある者は唐突に宇宙にあらわれシルエットが浮かび上がった。ある者は地底からのびやかな飛翔とともに現れた。一人ずつスポットが照らされ、真空と低温の宇宙からその勇敢な瞳を守るゴーグルを外してゆけば、その男が何者なのか、彼が誰なのか、一人ずつ明かされていく。そんな序曲が見られて嬉しかった。

何度も言うように、私はどんな座席であっても肉眼で見つめ続ける。オペラグラスは絶対に持たずフラッグひとつでコンサートを拝見している。なので、肉眼で、次から次へと正体が明かされるメンバーがいったい誰なのか、ゴーグルの下の正体を体格とシルエットだけであててみようと試みた。

世界さんと澤本夏輝さんは、特徴的な髪型や顔の輪郭そして体型にも独自の輪郭をもつからか正解だった。しかし私は、あとの全員を間違えた。木村慧人さんかとおもったら佐藤大樹さんだった。堀夏喜さんかとおもったら瀬口黎弥さんだった(ここふたり、よく間違えてしまう)。中島颯太さんかと思ったら木村慧人さんで、木村慧人さんかと思ったら中島颯太さんだった。そして中島さんかと思ったら、八木勇征さんだった。もうめちゃくちゃだ。私の肉眼は節穴であった。

このうち、セリから登場する責務を与えられ、これでもかと渾身で飛び上がってくる者たちが何名かいる。これ自体はいろんなコンサートによくある演出だ。しかし私はこういう演出をみると「雨乞狐」を思い出す。歌舞伎の演目で、六代目中村勘九郎がかつて踊った六役変化の舞踊だ。中でも、FANTASTICSの一部メンバーの迫り(せり)からの飛翔をみると、勘九郎が野狐を踊るときの丘迫りの大ジャンプをつい思い出してしまう。とくに澤本夏輝さんの飛びっぷりは、私の記憶にある勘九郎の野狐と同等の高さだ。ちなみに勘九郎は襲名前にこの舞踊に挑戦した際、膝に深刻なケガを負ってしばらく苦労された。そういうケガが起こらないよう心より願う。だから代々木でこの演出をなくしたのは、念のためのケガ封じか、あるいは一部メンバーの体調を慮ったからなのかなと思った。違うだろうけど。

なお歌舞伎では、花道七三のすっぽんからせりあがってくるものたちに人間はいない。妖術つかいであったり、けものであったり、あるいはすでに死んでいる人だったりする。すっぽんを使うことにそんな意味が託されていて、観るだけで役の造形がわかるようになっている。このコンサートにおいても、迫り(せり)あがりからのジャンプをゆるされている者たちは、人間離れした実力であったり人間であることを棄てられるような肝っ玉をもっているという意味だろうか?なとど考えたりした。

黒と黄色の阪神タイガースカラーの宇宙服を着て踊ることによって、FANTASTICSは、前人未踏の惑星を踏破し続けることを表現する。宇宙服なので自由がきく衣装とはいえないけれど、メンバーたちはそんなことをものともしない。宇宙服を着た彼らは、冒頭たてつづけに現状最大の得意曲やFANTASTICSのシグネチャーといえる歌、FANTASTICSのクールさやソフィスティケイテッドな部分あるいはソリッドさそしてシックな色を帯びた婀娜さであやつる歌などでファンの強い愛を勇敢に迎撃し、そして撃ち落としていた。そんな力をもつ曲を惜しみなく踊ってくれたのでとてもかっこよかった。このパートにおいて生のバンドは低音をしっかりと刻み、CDの音源よりいずれもテンポが少しだけ遅めにとられているように思えた。彼らも、音をしっかりととりながら、いつも以上にじっくりと慎重に、丁重に、踊りを荒野の惑星にまるで「遺す」ように実施していた。無重力のはずなのに彼らの足はしっかりと荒野へ刻んでいるように見えた。「TO THE SKY」などにその特徴がより顕著にあらわれていると思った。思わず音の数をかぞえてしまう。ふと、なんかそれぞれのメンバーが、違う楽器を持っているようだななんて思った。たとえば堀夏喜さんと澤本夏輝さんは概ね近くで踊っていて、FANTASTICSの最も重要な部分を担っている。そんなふたりの踊りを私はいつも、同じ字を全然ちがう筆あるいは違う書体で書いているなあと思うのだけど、このとき私は、堀さんと澤本さんは使う「楽器」が違っているのかも?などと抱いた。他のメンバーもそうだ。それぞれが担当する楽器がちがうから、ひとりひとりの踊りに、振りを敬虔に辿ることを飛び越えた、自分の音が見えてくる。けれど皆で同じ歌を踊っている。FANTASTICSのもつ七色の仕掛けの一端を少しだけ見せてもらったような気がした。真空で踊ることという不可能を可能にしたとき、宙にうかぶFの字が鼓動をうつ。その事実を私は、「Tell Me」のときに七色にひかっているFの字を見て、ようやく悟った。あのFは切り離された宇宙船や隕石ではなく、FANTASTICSのコア、核、心臓だった。

踊るには条件の悪い無重力下。けれど俺たちはどの荒野でも生きて行けてどんな世界でも踊れる強度があり俺たちはどんな名前をつけられようとこの踊りとこの歌とこの声があるのだと、烈烈たる女たちの悲鳴や歓声に囲まれながらFANTASTICSは平然と主張している。宙の国で、いつもどおり、自分たちの踊りを踊っている。ひとつも呑まれない者もいるし、おそらくまだこのレベルではまったく物足りないとおもっている者もいるだろう。それは客にではなく自分たちに対してだ。呑まれているようで呑まれていない者もいれば、呑まれることをまだ知らない者もいるかもしれない。あるいは、仲間達とともに踊れているから呑まれないですんでいる者もいるだろう。堀夏喜くんのことだ。堀くんは、そとからみえている100倍くらい、FANTASTICSで踊ることが大好きなんだなと思った。また、澤本さんは、客にお礼と挨拶と自己紹介をするタイミングで、深々とお辞儀をしていた。この礼儀の持ちようは、今市隆二さんと同じだと思う。今市さんがソロコンサートでお客に再三頭をさげていて、それもつむじが見えるくらい再三深々と頭をさげていたことを思い出した。

そんな男たちの逸る思いや、まだまだ踊りたがる身体を冷静にコントロールするには機械やAIに頼るほかない。ステラというロボットが、踊り続ける彼らをひとまずとめ、向かうべき場所にみちびく。そこは水の惑星パートで、これが「INTERSTELLATIC FANTASTIC」の肝で、私は再びこのシーンを見られることにとても心が躍った。

たどりついた水の星で、FANTASTICSはファンタ中期の代表曲を初めとした、ある程度繊細でフレッシュポップでいて、彼らの色味も強いけれどこの事務所特有の臭気も強めの数曲を披露する。それをまるで水中に溶かすように歌っている。地球の外の水のおかげで、現実の臭いもとけてFANTASTICSの清潔さが研ぎ澄まされる。彼らは深い海を泳ぐように踊っている。水底を軽々と歩き、彼らは海中の道をみつける。水底の歌が聞こえてきて海底に道が生まれる時間だなーと思った。この時間で、中島さんと八木さんが、きれいな水のなかでしか生きられない小さい魚のように見えた。そしてその魚が吐く気泡が、踊り手たちなのかもしれないなーなんて幻をみた。踊り手たちは水そのものを演じてるのかもしれないし、空気そのものなのかもしれない。ファンタは自由だし、何者にもなれるし、何色になってもいい人たちだ。水の国に降り立った彼らは宇宙服を無事に脱ぐことができて、深い呼吸をして、水にあふれた惑星で、リラックスしたすがたになることをゆるされる。彼らはこの惑星に降り立ったら、白地に(ファンタは何色にでもなれるしなんでも似合うポテンシャルをもつ男たちであるが、私は、白が一番似合っていると思う)露草色をちらしたような衣装に着替えている。品のあるシャツやボウタイブラウスが、メンバーそれぞれとても似合っててかっこいい。この衣装は一目みたときからMame kurogouchi2024SSのこれこれっぽいカラーパレットだなと思ってたけど、こう見ると別にどこも似ていなかった。今季のmameは、1610年頃の古伊万里の作陶から着想を得ているらしい。私はそれはそうとして人魚やさかなのうろこのようだなと思っている。さかなといえば水の星パートでは、海や水に川面やしぶき、水底や海の底そしてそこに棲む生き物たち、そして水の中で呼吸をできる者たちの話をするならこの歌がないとだめであろう「Flying Fish」も追加されていた。ソーダ水の栓を抜いて世界中にひろがったしぶきのような歌の中盤で、澤本夏輝さんは、ともに踊るなかまたちと離れて、それとなく海底の道を歩んでいく。海中から水面に顔をだしステージへあがってゆく仲間達から離れて、澤本さんは、深く、海の底へもぐっていくんだなとおもった。水の星のその道は澤本さんしか歩けないのだ。澤本さんしかあの道で呼吸ができない。

澤本さんは、「Flying Fish」から「Hey, darlin'」までをつなぐ水底の音楽に身を任せながら、水神様をおろすような踊りに入る。つまりこれはもう龍神降ろしの踊りといってもいいな、などと、戯れを思ってたけれど、今日の澤本さんは、彼に与えられた水の惑星を司る踊りを、まるで海や水の脅威、自然というものへの脅威に、ひどく敬虔に頭を垂れるように踊っているように思えた。人の力ではとうてい勝てない水と水の神に対して、まるでその場所を明け渡すように踊る。Fのコアを動かすのではなく、鎮めるような踊りだったように思えた。ブレイクダンスのマカコみたいな技も取り混ぜて即興で創作される踊り。それは水に背をむけていち早く仲間たちのもとへ戻っていくようにも見えた。のちほど、どうしてこの場所をまるでだれかにゆずるように踊っていたかがわかる。

そして「INTERSTELLATIC FANTASTIC」福岡公演の冒頭から一貫して、水を得た魚のように踊りつづけるのは堀夏喜さんである。Fの核を動かす。コアに火を入れる。心臓に血を流し込む。そういった力をほしがることへまるで無関心な踊りをホットかつクールに踊り続けるのが堀くんの堀くんたるゆえんだと思っている。宇宙であろうが惑星であろうが水であろうとどの国であろうと、堀くんは今日は好調にとばしている。どんなときだって自分のペースだ。堀くんは、ほとんど全ての歌において、音のひとつ向こう側を他のメンバーより速く捉えて踊っている。それが堀くんの踊りがときに、他のメンバーとまるで違う踊りを踊ってるようにもおもえる理由ではないか。たとえば「It's all good」では、およそ曲のもつ顔つきなど知らぬような表情で、次々とすごいスピードで振りをつかみに行っては、抜群のコンディションのもと、角度をきっちりとって踊っている。代々木でみた力の抜けた「It's all good」の踊りはいったいいずこへといった調子で、本来の力を取り戻した堀くんが、自分自身の踊りたいように踊るすがたを存分に拝見できた。堀くんは、今日の自分にとても納得がいっているようだった。誰に望まれた踊りでもなく、堀くんは自分が踊りたい踊りだけを踊るのが一番だ。これからも踊りたい人とだけ踊っていてほしい。

そして踊り手たちがお役目をいったん終えれば、世界は中島くんと八木くんだけの時間になる。中島颯太くんはここで、お客に向けて新曲のリリックや彼が今取り組んでいる仕事に即した説法の時間をとってくれるのだが、今日もD.U.N.Kでスカイハイが言っていたようなことを……、べつに話していなかった。スカイハイは音楽の話をしてたんだが、中島くんの説話は、より意味を広げている。中島くんはいつも、道徳と倫理について語っているし歌っている。彼はここで、おまえらはおまえらの人生をきちんと生きろ何もかも話はそれからだといったようなことを訴えていた。そしてふたりだけの歌の時間で私は肉眼で八木くんをただただ見ることの醍醐味を知った。私は彼らのうたを座って聴いた。座るという行為への糾弾は甘んじて受けるが、旗を振っていて謎にゆらゆら揺れていては、このときは、見えているものも見えなくなるからだった。機械をとおさぬ自分の目でしか見えない八木くんには月影みたいなものが降りていて、ついたほうがいい嘘もつかない八木くんのことは今見えたもので充分だなと思った。求めても何も出てこないと思った。八木くんはそのままを見せているからだ。そして中島くんはコンサートの端々で、非常にピリリと辛口で軸がしゅっとしている「ドス」を効かせてくる。あのドスは身なりそのものが見るからにドスが効いている人物では出せない、エスプリがきいてて知的な迫力を備えた、中島くんが独自にそだてたドスだと思う。ドスのきいた「ファッション」に関してはやはりこぶりさ愛らしさのほうが克っていると思うけども、要所で決め込む中島くんの声やどなりにやどるあのドスが私はとてもすきだった。

 ステージからのびる軌道の「先」は、いつもなら世界さんのものであり、澤本さんだけが立てる舞台である。けれど、マリンメッセの海から彼方へ伸びた道は、今回ばかりは別の人のためにあったのかもしれない。

瀬口さんだ。

INTERSTELLATIC FANTASTIC福岡公演において彼はそこかしこで「いい顔」を見せていた。やっぱりこの時間は彼のためにあったんじゃないだろうかとおもう。この日は彼のお誕生日の一つ前の日で、会場中で彼をお祝いできた。私もそのうちの一人となれるなんてこんなもったいない体験があっていいのかと思った。中島くんと八木くんが運んできたケーキをもらうと、瀬口さんはとてもいい顔で驚かれていて、なんというかこの人、地方のめちゃくちゃ良いかんじのにいちゃんだな…と思った。瀬口さんはとてもいいかんじの西日本の兄ちゃんである。もっというと中四国九州のいい男。あの感じやあの体温は、西の男のもの。西でも、関西じゃなくて、中四国の中心からこっちがわをかすめて九州を含めた、もっと、なんかこう、いわゆる、こっち側のかんじ。ということで福岡公演はFANTASTICSに数少ない西の魂をもつ男の祝福のコンサートでもあった。私は瀬口さんに、一ヶ月の飲酒量とそれに焼酎が占める割合を聞いてみたい。

そんな瀬口さんも活躍するパフォーマーショーケースにおいて、澤本さんと堀くんがともに地底を叩くと、まるで憤怒のようなものが生まれているように見えた。そうしたものから適切にひややかに距離を置けそうな澤本さんや堀さんから、おもわぬ情動が出てくるものだから、本当にFANTASTICSには驚かされる。瀬口さんは花道の先で咆吼を見せていた。パフォーマーがひとりずつ踊りをつないでいく。今回は踊りに非常に「つなぎ」を感じて、その意識を世界さん堀さんと澤本さんから特別かんじた。澤本さんは木村くんに、どうぞ佳き踊りをというエールをおくらんばかりに瀟洒につないで、せりに消えていった。堀くんがたったひとりで踊るとき、私はいつも、堀くんはみんなと一緒に踊るのが一番楽しいんだなと思ってしまう。「Tarte Tatin」では、FANTASTICSのもつ可愛さの真髄を、彼らは並の覚悟でそれを追求したわけじゃないことを思い知った。FANTASTICSを軽んじないのは何より彼ら自身なのだ。そして「CANNONBALL」では、「なにやってもいい時間ちゃいますよー」と中島くんが呆れてつっこむほどに、ステージや場内の混乱と喧噪と盛り上がりがすごかった。

「Choo Choo TRAIN」で、澤本さんは、一貫して、客と対話をしていると思った。一度も怠けることのない肘と常に謳っている身体。それが私にはものすごくイキイキして見える。澤本さんの踊るものを画面で拝見していると、空間を味方につけたエフォートレスなところや抜けば抜くほど満ち足りてくるものにしんみりと見とれてしまうが、澤本という実存を拝見すると、私的には、すごい血潮の臭気、脈だとか、皮膚だとか、そういうものを感じさせる。あのお方を見ているととにかく肘が終始踊ってて、一緒に踊ろうと素直に客を誘っている。ということは、あのお方を知りたいなら、あのお方が導くように踊る以外に手段はないんじゃないかと思った。澤本さんは、踊ることによってお客に惜しみなく愛を与えている。あれは堀くんはやってないことだ。堀くんは客を誘っていない。けれど澤本さんは何も隠してなく、肘とリズムでこうしたらいいとちゃんとお客を導いている。なのであのお方に誘われるまま踊ってみたら与えてくれるものを受け取れるんだろうなと思う「Choo Choo TRAIN」の一幕だった。そして「ギリギリRide it out」で、瀬口さんが大変な疲れっぷりをみせながらも懸命に踊っておられた。そこで思うのが、終始顔色ひとつかえず、ずっと踊りきる木村慧人さんだ。彼の秘めるスタミナのすごさに唸ってしまう。パフォーマーショーケースにおいて、澤本お兄さんに、おまえの踊りを踊ったらいいんだよといわんばかりにつながれていた木村くんは、まるで月にすむうさぎのようだった。そして、「ギリギリRide it out」を代々木体育館で拝見したときは、メンバーがおもむろに服を脱ぐのは、体の使い方や踊りの詳細のありのままをそのまま見せてもとくに支障がないからなんだな、脱がない人間はその種明かしをする気がないわけなと理解した。けれど今日は、おもむろに服をぬぎだす彼らを見て、みんなただ単に早く風呂に入りたいだけなんだなと思った。堀くんなど、攻撃性ゼロのようすで、もちもちとしたペースで服を脱いでいた。

そして今回も、木村くんがぬぎすてた服を目でなんとなく追いかけていると、コンサートが終わってしまった。前回と同じ結果だ。というか前回と同じ席なのだから、同じものを見てしまうに決まっている。

その後、メンバーがやりきった姿で真っ白な衣装をまとって勢揃いし、じゃれてみせるのだが、そのとき、佐藤大樹さんが、自分の目が離れているだとかどうだとか、自分の特徴やキャラクター性を表現する言葉を使ってなんらかの二つ名を自分につけてギャグとして披露しあらためて自己紹介するといったおたわむれを、おもむろに披露していた。

私はそのたわむれに、「うーん」とも思ったりしたし「ふーん」とも思ったし、「そっか」とも思った。そのたわむれは畢竟、メンバー全員に広がることとなる。佐藤さんが自分で自分にかけたプレッシャーや負荷は、みごとに不発であったからだ。そして不発の責任をひとりで負うことを佐藤さんは即座に放棄し、仲間達全員にかぶせた。しかし紆余曲折や様々な仕事や経験を重ねたメンバーたちは、そんな負荷を負荷とも思っていなかったようだった。一人をのぞいては。たとえばここでも堀くん得意の華麗な責任受けとさらりとした責任逃れ、そして負荷を負荷とも思わぬ極太の神経と要領が炸裂し、堀くんは佐藤さんのかけるプレッシャーを要領よくさばいていた。木村くんにいたっては、負荷を客に丸投げし、客席に火だねを投げ込んでいた。しかし、「みんなぼくのお姉ちゃん」といった、木村慧人氏によるわけのわからない放言という名前の火だねは、すぐに水をかけて消火できる客もいるし、そもそも火がつかない客も多いだろうと思った。私も多少穏やかではない気分になったが、結局とりたてて火はつかないまま終わった。

そしてひとりだけ、佐藤大樹さんがかけた負荷に、負けた人物がいた。

澤本さんである。

佐藤さんのかけたプレッシャー・負荷によって、たいそうそのままの姿をさらしてしまった澤本夏輝という人物のありさまを見た瞬間、私のなかの開けてはならない扉がバァンと開いた。こんなものをね、開けるものではないのですよ。その後すぐ閉めました。要は、澤本さんは、佐藤さんのかけた負荷に耐えきれず失敗し、そして自らの失敗を恥じていた。こんな澤本さんが見たかったという私の扉は今はもう閉じたのでもういいんですけど、これは佐藤さんが、企図したものである。意図して負荷をかけ、意識して澤本さんのこの状態を引き起こしたのである。というか今までずっと佐藤さんはこういうことを仕掛けてきたのか。私は全然知らなかったし、わかってなかった。おまえ何を見てきたんだという話である。澤本さんのなんらかのトリガーを佐藤大樹という男がにぎっていること、それを私は何も見えていませんでした。というか全員のなんらかのカギあるいは引き金を佐藤大樹という人が握っているということか?FANTASTICSを見ててわかること、それはとにかく、彼ら全員が佐藤大樹という人を「信じ切っている」「信用しきっている」ということなんだが、それはこういう、佐藤大樹になにかを預けきってるってことだったんですね。佐藤という男に何かを預けきると、ときおりこうして引き金をひかれる。そういう仕掛けがFANTASTICSには眠ってたのですね。知りませんでした。今まで何をみてきたんだろうと思いました。

そんなことはどうでもいいんだが、アンコールで行われた「DARK MATTER」は、堀くんが得意なタイプの音楽であり、たいそう得意なタイプの振りがついていると思った。これは踊るにあたって血の温度の高さをとりたてて必要としない歌で、堀くんが踊りたいように踊れば、音のほうから堀くんにからみ付いてくるナンバーだからだ。細い光線が彼らのもとに降りてくるような照明もかっこいい。

あとは木村くんのもつ番組に堀くんが出たというお話のとき、堀くんがわざとらしく訝しいようなしぶいような表情をみせながらもお互いの仕事をたたえ合い感謝し合う一幕も、とても二人らしくて、仲の良さを見守っていたくなるぜいたくな時間だった。

そしてさいごに、彼らは「FANTASTIC 9」を春野でうたっていた。

画面にそっくりそのまま花が舞う緑色の春野が映るので、最後に降り立ったのが春野であることが分かる。

「春野の神性あまてらすあまてらす」

これは私が師事している俳句の先生の作品だ。ずいぶん教室に行けてないので句の真意を直接聞けてはいないし読みあぐねているが、そのままとると、春野にめぐらされているはりつめたような神性にふれてしまうと、もうあまてらすと唱和するほかない?祈るしかない?みたいなことだろうか。というようなひどい批評でぬるっとお茶をにごすとたちまち指導が入るが、前回代々木でFANTASTICSを見た数日後、ふとこの句の存在を思い出した。まあしかし今回福岡で見てみて、そのイメージは、なんなら会場に入った瞬間あっというまに消えてしまった。違う違う、ないないと思った。澄んでいながら血の通った踊りを踊る彼らに、そのときよぎった句もイメージも、あっけなく塗り替えられた。けれど今日、最後に少しだけ、この句がよみがえった。そう思ったらイメージはまた消えて、つまりかすかに覚えていた春野のにおいがただ立ちのぼっただけにすぎなかったということだ。

私はしょせん、徳山門司と伊東カムイと山口孫六をひきずったことが入り口なだけのファンで、目の前で歌って踊る彼らを肉眼で初めて見たのは、2022年の11月。だから私は、この歌で共有できるものを知ることは、永劫かなわない。「FANTASTIC 9」の時間は、彼らと物語をともにするより、宙と海と世界を生き抜いた青年たちが降り立つとても懐かしい春野、彼らのあゆんできた足下が今、たしかに暖かいこと、裸足で歩いてもかまわないほどに春の朝露にぬれてて、やわらかい草で、春野が彼らの味方であること。

私は、彼らを守る春野を静かに見つめるに徹するのが正しい。私の場合は、ここにあまねく満ちている愛情をただ見ることだけが正解だ。

"INTERSTELLATIC FANTASTIC"のラストでスクリーンには、STARBOYSに愛された少女の大きな瞳がうつっていた。そして「バタフライエフェクト」というあるいみ直接的なワードが投影される。このエンドを代々木ではすっかり見忘れていた。このとき初めて気づいた。

福岡への道中で私は、石牟礼道子の『魂の秘境から』を読んでいた。その中の「原始の渚」という一篇において、石牟礼がかつて入院中に夢うつつで、渚を幻視したという語りがある。石牟礼は夢のなかで蝶になり、"生命が海から陸へと上がりかけた姿を、そのままとどめたような”アコウに止まったという。

"沖縄や奄美では、蝶は「はびら」「はびる」と呼ばれ、人の体から抜け出した「生き魂(まぶり)」と考えられている。”

宇宙船のコクピットを飛んだ一頭のモルフォ蝶。FANTASTICSの羽ばたきが起こす風。その結果生まれる、予測もつかぬ途方もないできごと。だれも知ることのできない未来。そういえば私の俳句の先生はこんな句も発表していた。

「蝶は秋従え翅の重し重し」

句の前半で季語を巧みに使って、蝶が生きた長い時間を表現する。先生の母親の著名歌人は、後半再考の余地ありと指導されていた。

彼らが生きるほど羽ばたくほどに未来を予感するたびに重くなる翅をそっと軽くしてくれるのは誰なのか、やはり私に、それを想像する資格はなかった。

@kokonoe
口から出まかせを言っているブログ