2023年7月5日
FANTASTICS ARENA LIVE 2023 “HOP STEP JUMP” 大阪
あの曲がよかった、誰くんが誰くんと何をしていたというレビューはひとつもありません。
この日はスタンドHで、とても見やすかった。メンバーのうちどなたかが必ずスタンドH側に気を配っているし、おおむねだれかがいつも近くで踊っている。花道もステージも中央もすべてよく見えた。彼らが中央のステージで踊る。すると彼らが組む隊列を後ろから見ることになるのだが、この角度がまた、珍しいのである。いつもであれば見られない角度で、FANTASTICSの踊りを観察できるのだ。どの角度から見ても彼らの踊りは多くの意味を孕んでこちらに迫る。澤本・堀の踊りを独自の角度から見せて頂けるなど、僥倖以外のなんでもなかった。つまりは今日も、僥倖の夜だった。そしてひっそりと祈った。このアリーナ公演は、祈るためにあった祝祭ではない。これはこれとして終えて、明日からもFANTASTICSは前を向いて走って行くだけだ。なので私は独りでこっそり祈った。今日もスクリーンもモニターも見ない。双眼鏡も使わない。私は自分の目で見えるものしか見ない。なので、見えてないものも見えないものも多い。見たいようにしか見てないし、勝手に見ているものもとても多い。
勝手に見たものを言わせてもらえば、この夜はどう数えても8人じゃなくて9人いた。ファン太郎だけの話ではない。中尾さんのシンボルであるファン太郎ぬいぐるみも常に、彼らとともにツアーをついてまわっていて、ファン太郎はステージの片隅にも登場する。アリーナ公演のステージの最後、ファン太郎を瀬口さんがあずかっていた。瀬口さんは、ファン太郎を客席に向かってかかげていた。瀬口さんはファン太郎に、満員のアリーナの客席をみせていた。ゆっくりとじっくりと見せておられた。これは、ファン太郎ぬいぐるみをFANTARO(FANTASTICSのファンネーム)たちに見せているのではなかった。瀬口さんが中尾さんに満員の客席を見せているのだ。その事実を悟った瞬間あっと声をあげてしまいそうになった。そして、僭越ながらしばらく手を合わせて祈らせて頂いた。
有明アリーナは行ってないのだが、アリーナが近づくにつれそして終わってから、世界に八木勇征、そして堀夏喜の笑顔の質が一気に変わっていった。疲れがとれて本当にやりたかったことを手にした彼らを、叶いつづける夢が真の笑顔にしている。そんななかでひとりだけずっと表情の変わらぬ男がいた。
澤本だ。澤本夏輝という男。
FANTASTICSにけして「甘え」をゆるさない男は、夢をかなえても変わらないようすだ。よしながふみ、あるいは谷川史子の描く男の子のようなすっきりとした風情をもちながらも、隠せない凄みと澄んだ迫力と清潔なドスがある。どすはしっかり効いている男だ。スタンドHだと澤本の踊りをくまなく見物することができた。体のすべての部分にたやすく言うことを聞かせている。心の内と体が一致した踊りである。完璧もいいところだ。FANTASTICSの正解は世界のなかにあって、FANTASTICSの名答はいつだって澤本夏輝の身体のなかにある。踊りは心と一致するのに澤本の意志や目標はまた別のところにあるのか。さくさくと送られる笑顔。愛想。ユーモアに余裕に冷静さ。しかしそのたたずまいからひたすら澤本の「手厳しさ」が伝わる。澤本夏輝は、日本のフレッド・アステアみたいで現代のジーン・ケリーである。
などと、ここまでいい加減に噴きあがると、さすがに誰にも同意してもらえたことはない。MGMミュージカルの匂いがどこかにあるのは確かだと思うんですが…ないですかね…。彼はまごうことなきLDHらしさ、つまり現代的な凄みもあるのに、どこかクラシカルなチャームがある。澤本もまた、FANTASTICSにいろんな客を連れてこれる男だよなと思う。クラシカルで厳しくて高潔な青年の踊りはまだまだ手の内にあふれんばかりにあるのだろう。その手数はどれほどだろう。澤本のもつそれがそのままFANTASTICSの未来になるのだろう(と2023年の夏は思ってたが、2024年の今はあまり澤本さんに対してこういうことは思ってない)。個人的に、八木のそばに澤本がいてあげていると、なぜかすごく安心する。
この夜、堀夏喜が客に向かって「だいすきです」などといった文言をさけんでいた。するとお客がとてもよろこんでいた。ここは、あのシャイで素っ気ない気配の青年にそんな言葉を言わせてしまう夢ということだ。
二日間ずっと、堀夏喜くんが踊るすがたを永遠に見たいと思った。堀くんだけでなくFANTASTICSが踊っているすがたをずっと見ていたいと思った。そんなことをするとケガをするし、もうそんなことを冗談でも言える時代ではない。そんな永遠はないからいいしそんな永遠はあってはならないし、ない。堀くんにはこれからも好きなものだけを好きと言い、踊りたい踊りだけを踊っててほしいなと思った。あの大きな手はけして雄弁ではない。あの手からすぐに意味も踊りも抜けていくからだ。素っ気ないしあいまいだ。よどみなくいつも何かを語る手ではないのに、堀の大きな手は堀を堀たらしめる。指さきではなくて、堀は、手だ。おしゃべりをしたがっているのに、その手はまだまだ語彙がたらない。FANTASTICSがあゆむ道が、堀の手と指に言葉をもたらすといいなと思う。
堀夏喜といえば、膝だ。やわらかい膝(膝下は硬いなと思う)を自由につかって、振り付けから大胆にはみだしながらFANTASTICSの踊りであることをやめない器用さを日ごと磨き抜いている。振り付けに敬虔な澤本と対になり、どんな踊りでも難なく踊ってみせて、自分の言葉で踊る。無重力。いや、無重力は世界だ。堀は、重力や空気や水などを味方につけているかんじの踊りだと思う。その対は、けして正確にそろえきってるわけじゃなくて、そういうのがFANTASTICSのやりたいことではなくて、それぞれがそれぞれの踊りを踊ることがFANTASTICSのやりたいことなのかもしれない。魔法のように長い手足は自分の踊りを踊る。ときに文脈を簡略化する踊りとなる。たとえば木村は最後まで明瞭にものを語りたがる踊りを踊るが、堀は勝手に自分の言葉にしてしまう踊りだ。堀は踊りで自分の言葉をしゃべっている。ファンタを洗練させファンタを磨くのは堀夏喜。その水もしたたるようなすがたは、まるで白鳥……でもないな、フラミンゴでもない。鳳凰でもない。鳳凰は木村慧人だから。堀は人間だ。普通の人間でしかなかった。堀夏喜という人間の踊りをこれからもずっと見ていたいなと思った。もはやこの夜の感想でもなんでもないし、2024年現在は堀くんにもまたちょっと違うことを思っている。
別の鑑賞記録でも書いたが、この王国の男の子たちは、歌い踊り表現する以外に、もうひとつやらなければいけないことがある。瀬口黎弥という青年はそれを、誠実にていねいに遂行する。私の隣の席に、木村くんを愛する女の子たちが座っていて、女の子たちは木村くんが近くにくるたび立ち上がって木村くんの名前を書いた物品をかかげて、木村くんへ愛していると伝えていた。それ以外はすわり、木村くんいがいのFANTASTICSに忌憚なき批評をおくっていた。その批評を聴いていたけど、あの子たちの言うことはすべて真実だ。さすがである。FANTAROにはいろんな女の子たちがいるがどの女の子も、青年達をよく見ている。その批評はとくに瀬口さんに対して非常に辛辣で手厳しかった。女の子たちの言うとおりで、踊りからまっさきにこぼれ落ちるのは瀬口である。なんでこぼれるのか。それは瀬口が優しいからだ。自分たちの呼吸だけじゃなくて、客席の呼吸もとりつづけているからだ。彼らのなかで誰にもできないことをやっているから、少しだけこぼれていくのだと思います。それもまたFANTASTICSなんだと思います。私は相変わらず手の平ほどの彼らの身体を、肉眼で見つめ続けていたのですが、一瞬だけふとモニターを見たとき、そこには瀬口黎弥の決意に満ちた表情が映っておられました。それはもう、卒倒するほどかっこよかった。りきみもいきりもオラつきという名の幼稚な威圧などひとつない、ただ決意だけがある澄んだ男のかっこよさでした。
ホールツアーでは傷ついていた(ようにきこえた)八木さんの声や歌が、アリーナにくると輝かんばかりの美しさと表現だった。八木さんはきっと独特の大成をするんだろうと思う。このころは八木くんは2013年ころの古川雄大に似てるなと思ってたけど今はそう思ってない。
木村慧人さんは一貫してむらがなく、波もなく、いつもすごい迫力で笑っていて、それはもうすごい気迫でみんなに愛されている。愛されるということをやっているし、愛するということをやっている。佐藤大樹さんはプロで、職人で、一身にファンタを守り続けている。世界さんは本来一生縁なんかないはずの世界の人、天上の人だと思うし、何より中島颯太。中島がFANTASTICSの柱だなと思った。FANTASTICSにおける常識、メンタル、フラットさ、渉外、全部中島さんが請け負っているなと思った。背負うというより、請け負っている。たった23歳か。
このあと体調不良になって、無理してBOTに行き、回復に半年かけた。今後も半年見たら半年見ないくらいというペースが身体を壊さずにすむかもしれない。FANTASTICSやLDHを観に行くという行動を趣味に加えてから、医療費がかかっている。