手紙

komari
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前略

先日は食事会に誘ってくれてどうもありがとう。楽しかったです。バジルのお父さんのことは、本当に残念でした。

私にも、どうしてもみんなに知っておいてほしいことがあるのでこれを書きました。会って直接言えよという話なのですが、私はもともと面と向かって人に自分のことを話すのが得意ではなく、それで全てを伝え切る自信もないので、こういう回りくどいやり方をすることを許してください。

私の父は、私が高校3年の夏に亡くなりました。肺に血栓が詰まる病気で、ほぼ急死に近い状態でした。

うちはそれほど仲の良い親子ではありませんでしたが、それでも高校生の身で親に突然死なれるというのはショックでした。うちの父は健康優良児ではなかったけれど、以前からなにか深刻な持病があるというわけではありませんでした。まさに青天の霹靂だったのです。

その後しばらくの間の私の精神状態はひどいものでした。夏休み中で登校する機会が減っていたこともありそれほど問題になりませんでしたが。昼間にそれまで経験したことがないような異常な眠気に襲われたり、かと思うと夕暮れ時に飛び起きて、制服を着て家の外に飛び出すといった奇行におよぶこともありました。

ストレスが原因の肺気胸で入院したのはその直後のことです。あのときは心と体が不可分な関係にあることを身をもって知りました。そして父親が肺の病気で死んだ直後に自分も肺気胸になったことは、私に死というものを意識させるのに十分でした。死が、いっきに自分のそばまでにじり寄ってきたように感じられて、それがとても怖くて、夜に一人で病室にいると耐え難いくらい不安になったことを覚えています。

みんながお見舞いに来てくれたのは、本当に、すごくうれしかった。この人たちは生涯最高の友達になると確信しました。それは、偽らざる本心でした。おそらくあなたたちが想像するより何倍も強く、私はあなたたちに感謝し、この関係をかけがえのないものだと思っていました。ずっとそのままにしておきたいと願いました。それで、私は肺気胸になった原因を、つまりは父親が死んだことをあなたたちに打ち明けませんでした。

1回目にバジルが見舞いに来てくれた時に、こんなやりとりをしたのを覚えているでしょうか?

「明日、みんなもまた来るって」

「でも、はやければ明日で退院する予定だよ」

「心臓のあたりをおさえて『う、胸が......!』とかなんとか適当な芝居を打てば一泊くらい延長してくれるんじゃない?」

こういうやりとりが心の支えである気がしていたのです。打ち明けてしまえば、たちまちあなたたちの表情は固まってしまい、冗談が言い合えなくなることを恐れました。

どうしようもないくらい馬鹿でした。私は。

担任の廣木先生や学年主任の橋詰先生、それから同学年のクラス担任たちは事情を知っていました。知った上で、生徒にはこのことは話さないでほしいという私の頼みを聞いてくれました。いつかそのときが来たら自分から話すつもりでした。

廣木先生から報告を聞いた荒瀬克己校長は「彼は友人関係は大丈夫なの!?」と聞き返したそうです。荒瀬校長とはその後何度か面談する機会がありましたが、あの人はその都度この点に言及していました。卒業式で校長から卒業証書を受け取る時も「もう友達に話しましたか?」と聞かれました。「いえ、まだこれからです......」と言葉を濁すにとどめました。本当に、そのうち言えばいいと思っていたのです。

校長は正しかった。大切なことは無理をしてでもさっさと打ち明けておくべきでした。結局、私は肝心なところでみんなのことを信じきれていなかったのです。一時的に同情的な態度をとられることはあっても、あなたたちがそれまでの付き合い方をガラッと変えることなどないと、少し考えればわかるはずだったのに。今思えば話す機会はいくらもあったのに、言えませんでした。

するべきことをしなかった後悔はなかなか消えてくれないものです。私は、ずっと、ずっと、ずっっっと、心の片隅でこのことを後悔していました。

それは単に臆病であるが故に事実を伝えられなかったというだけのことではなく、あんなに仲の良かった人たちにさえ心の中を開いて見せることができなかった自分の意固地さに対する嫌悪でした。

大学に進んでからもしばらくは連絡を取り合ってたまに遊んだりしていましたが、やがてそれぞれに新しい交友関係ができて、あなたたちとは疎遠になっていきました。阪大に進学したリチャや北村さんとも、私の身勝手な振る舞いもあり、あまり話さなくなりました。

何年もの間、自分から連絡を取ろうとはしませんでした。仲良しグループが自然消滅すれば、全てがそのままなかったことになるのではないかとどこかで考えていました。それでいいのではないかとすら思いました。それは、とても寂しい期待でした。

突然旅行の誘いをもらったのはいつ頃だったでしょうか?交友関係を取り戻したい気持ちはありましたが、そのような負い目があったので反応を返せませんでした。懲りずにその後もいろいろ誘ってくれなければ、そのまま縁が切れていたかもしれません。私はいつも助けられてばかりです。

モロッコ料理を食べながらバジルがお父さんのことを、生前の奔放すぎる振る舞いや残された負債のことも含めていろいろ話すのを聞いていて、目から鱗が落ちる思いが......いや違う、自分の手で自分の目の前にかざしていた曇りガラスをようやく下げることができたような気がしました。

「なんだ、普通に話せばよかったんだ」

どうして、こんな簡単なことが私にはできなかったのでしょう。17歳の当時と今とでは、経験も自分の置かれた世界の広さも全然違うことはわかってはいるのですが。

これを書いて送るかどうかすごく迷いました。「そんな昔のことをほじくり返して、なにがしたいんだこいつは」と思われるのではないかと不安でした。打ち明けられた方も困るだろうと思いました。実際、途中まで書いたものを一度全て消しました。でも、この考え方がダメなんですよね。これから先もあなたたちと付き合っていくつもりがあるなら、今伝えておかなければならないのです。それで数日たってから書き直しました。大事なことを伝えるのが遅くなってごめんなさい。

この手紙に反応があろうがなかろうが、憐れまれようが笑われようが気にしないことにします。最後まで読んでくれてありがとう。読んで呆れたら、無視してください。

岡本晃大