ブローガスト17本目。久しぶりに魂にどしんとくる舞台を観た。面白かった、好きだなと思う、演劇・ミュージカルは数あれど、ここまで引き込まれ、心に響く舞台は、ごくわずかだと思う。こういった作品に出会うために、私はそれなりな数の舞台を観ているんだな、と思った。

※原作・舞台の内容にかなり触れています。ネタバレを避けたい方はご注意ください。また、原作を読み込めてないため、外したことを言っている可能性があります。
原作の漫画は読んだことがなかったけど、いつかは読んでみたいと思っていた。野村萬斎さんが出演することも、チケットを取った理由のひとつ。映画『七つの会議』が好きで、実際にどんな表情や身体表現で演じるのか、舞台で観てみたいと思っていた。
観世能楽堂は銀座のGINZA SIXの地下にある。きらびやかな高級店が立ち並ぶ商業施設の地下に、厳かな能舞台があってびっくりした!能狂言は初めて観るので、緊張してそわそわしてました。それに今回の席がかなり近かった。脇正面。衣装が擦れる音や、人が動く気配までかなり近くに感じられた。衣装についたお香のような香りも漂ってきて、なんとも上品で、いい匂いだった。
能狂言
原作の漫画を読んだのは1週間前くらい。かなりギリギリの予習。でも、読んでおいて本当によかったと思う。能狂言なので、普段使っている言葉とは少し違う。漫画をまったく読まずに観たら、少し難しく感じるところもあったと思う。長い漫画を舞台にまとめるのは、かなり難しいと思う。ここは観たかった!というところが、ちゃんと押さえられていた。
能狂言というものをあまり理解せず観に行ってしまった。実際に観てみると、能の優雅さ、静けさ、ゆっくりとした動きと、狂言の面白さや演劇的な部分が、うまく組み合わされていた。
物語を追っていく中に能の動きが入ることで、ふっと空気が変わる。その静けさと動きの緩急がとてもよかった。感覚としては、ミュージカルでいう演劇のシーンと歌うシーンが切り替わるような感じに近いかも。
狂言には庶民的な面白さもあって、結構笑わせてくる。「ここ、笑っていいんだ」と思う場面があり、実際に客席からも笑い声が起こる。能と狂言の組み合わせが、初心者にも観やすいものになっていたと思う。
厩戸王子の美しさと孤独
厩戸王子を演じた野村萬斎さんが、とにかく美しかった。子どものようにも見えるし、少女のようにも見える。かと思えば、カリスマ的な、魔性的な存在にも見える。細やかな表現は、野村萬斎さんがこれまで積み重ねてきたものなんだろうなと思った。
それ以上に心に残ったのは、厩戸王子の感情だった。孤独。魂の片割れともいえる毛人とも、最終的には道が分かれてしまう。原作を読んでいるときも苦しかったけれど、人間が実際に演じているのを見ると、その孤独が余計にひしひしと伝わってくる。最後のシーンは「悠久の愛」と「永遠の孤独」が同時に存在していて、美しくてとても苦しい……!!
ひとつだったものが分かれる
漫画を読んだときに、頭に浮かべたのは、プラトンの『饗宴』に出てくる「アンドロギュノス神話」だった。人間はもともとひとつの身体だった。それが二つに分かれてしまった。だからかつてひとつだった身体や魂の片割れを求めて、もう一度ひとつになろうとする。それが愛なのだ、という話。
今回の能狂言でも、そこが表現されていたように思う。「もともとはひとつだったものが、切り離される」ということ。人間は胎内にいるときには、ひとつの存在として始まる。でも、生まれるとそこから切り離されていく。この「切り離される」ということ自体が、この作品のテーマのひとつなのではないかと思った。
厩戸王子は強い「愛の飢餓」を抱えている人に見える。生まれつきにものすごいカリスマ性があって、人間ではないようにも見える。神秘的な力を持っていて、どこか超越した存在に感じられる。けれども結局は彼もひとりの人間なんだと思う。
胞と宙
能狂言についていた「胞(はら)と宙(そら) 愛しき想いをいづくに放つぞ」というコピーがとても好き。
「胞」は、胎児を包むものとか、内側にあるものを思わせる。そして「宙」は、宇宙のような外側の広がりを思わせる。胎内から生まれ、外の世界へ出ていく。単純に「内と外」と言うのではなく、「胞」と「宙」と表現するところに、この作品らしいなと思った。そして「愛しき想いをいづくに放つぞ」という言葉は、宿した想いを相手に届かなくても、どこか遠くに解き放つということなのだと思う。
このコピーは野村萬斎さんが考えたらしく、この人、好き……となった。
刀自古
刀自古は毛人の妹。今回の舞台では、登場する時間は短いのに、すごく強く印象に残った。
能面をつけているから、表情を読み取ることはできないんだけど、内側にものすごい苦しさを抱えていることが伝わってくる。私は能について詳しいわけではないので、なぜそう感じるのか、技術的なことはよく分からないけど、あの繊細な舞には、感情を外に出すのではなく、内側に抱え込んでいるようなものがあった。
刀自古は、兄である毛人との子を身ごもってしまう。そのこともまた、「胞」という言葉に繋がるのかなと思った。身体の内側に宿るもの。そこから外へ放たれていくもの。「愛しき想いをいづくに放つぞ」という言葉が、厩戸王子だけではなく、刀自古にも重なってくるように感じた。誰かを愛したい、誰かに愛されたいという思いがあっても、それが必ずしも相手に届くわけではない。けれど、愛を求め続ける。それがこの作品にある切なさのひとつなのかなと思う。
疫神が怖かった
舞台で印象的だったのが、疫神。痘瘡(天然痘)の疫神で、病に罹った人の周囲に現れる。四方を疫神に取り囲まれると、その人は死んでしまう。原作にも登場するのだけれど、登場シーンがものすごく怖い。
この疫神は、厩戸王子と毛人の二人にだけ見えている。チリンという音が聞こえて振り向いたら、すぐそこに疫神が立っていた。怖くて心臓バクバクした…!あのシーンを挟むことで、単純に怪異的な怖さが出てくるだけではなく、厩戸王子と毛人が共有している視界、二人だけが見ている世界が舞台を観ている私たちにも伝わってくる。
日羅を思い出す
原作には、日羅という人物が登場する。仏教の僧侶で、最序盤に厩戸王子に対して「そこにいる童子は人にあらず」というようなことを言う。厩戸王子は、神秘的な人間離れした力を持っているので、読者としても「もしかしたら人間ではないのでは」と思わされる。でも、物語を読み進めていくと、やはり厩戸王子も人間の子で、人間としての飢餓があることに気づく。
能狂言には、日羅本人は登場しない。最後のほうで、厩戸王子と、彼が妻に迎えた少女の周囲を、これまでに関わってきた人々のような、怪物のようなものが流れていく場面がある。そこに、お坊さん(ほとんど大仏のような顔をしてる)のような格好をした人物が出てくる。原作の日羅も大仏のような顔で描かれていたので、あれは日羅なのかなと思った。演出の意図はよく分からないけど、ほんの一瞬、通り過ぎていくだけで、原作を読んでいたときの感覚を思い出した。
まとめ
ガーッていろいろ書いてきたけど、すごくいろいろ話したくなる作品だった!
やっぱり「生の人間の感情を見る」ということが、舞台作品の面白さなんだなと思った。漫画の中ですでに、ものすごく生々しく描かれているけども、生身の人間が演じることで、漫画とはまた違う血と感情が通ってくる。人間の揺れ動くものがさらに生々しく感じられる。その揺れそのものが、人間らしくて面白い。
ここで「狂言」という形式が、すごく効いてくると思った。狂言の持つおかしみがこの作品にすごく合っている。悲劇であっても、そこに人間臭いおかしみがあって、その部分を狂言がすくい上げてくれる。
一方で、能はそういう人間の内側にある感情を表現するのにすごく適していると思った。表情を大きく変えたり、感情をそのまま言葉にしたりするのではなく、静かな動きや間によって、内側にあるものを見せる。だから、能と狂言の組み合わせが、この作品には本当にぴったりと思いました!
とはいえ、もしミュージカルでやるとしたら……ちょっと見てみたい場面もある。私は厩戸王子と毛人が交わる、雨乞いのシーンがすごく好き。
ここは抱き合いながら二人が歌い上げて、一幕終了――みたいな演出をちょっと想像してしまった。実際、今回の能狂言もかなりそれに近い感じけど。
漫画『日出処の天子』をなんでもっと早く読まなかったんだろう…と思わなくもないけど、どんなタイミングであれ、読んで、能狂言を観に行けて良かったです!完全版を読むぞー