6月の映画の会では『国宝』を紹介した。予告を別の映画の上映前に観てから楽しみにしていた。主演二人(吉沢亮、横浜流星)は仮面ライダーフォーゼで共演しており、その時を思い出して懐かしい気持ちになった。また、予告だけでも分かる圧倒的映像美。しかも歌舞伎がテーマということで絶対映画館で観たかった。私は公開の翌週に観ており映画の会もその週にあったのだが、参加者の過半数の人が観ていた。映画の会が始まる前に訪れたバーでもさっき観てきたという人に出会い感想大会で盛り上がった。この映画は観た人同士であれこれ話すのに適してると思う。以下あらすじは省き箇条書きでの感想です。
・雪がしんしんと降り積もるなか新年会をする様子から映画が始まるのだが画面が美しい。しかもその雪と血の光景が後にも響いてくる。
・映画の上映時間が約3時間と長いが、長さが気にならないほど面白かった。話の筋が良いのと、映像で魅せる場面が多くあり画面に集中するシーンが多かった。
・歌舞伎役者ではない主演二人だが相当の努力が見える。この二人の少年時代を演じた子役も良かったし吉沢亮、横浜流星に絶妙に似ている。すごい似てるわけではないがアップになると目鼻立ちとかパーツが似ていてよく見つけてきたなと。
・『国宝』は血と才能がテーマになっている。歌舞伎は世襲制の世界。俊坊が正当な後継者であり、喜久雄はあくまで部屋子。喜久雄は才能もあるが何より努力家。悪魔と取り引きをしたと喜久雄が話すシーンがあるが、そのくらい芸に全てを注いでいる。いくら努力しても手に入らないものは血だった。俊坊も後継者としての輝かしいオーラと才能はあるものの、全てを捨て芸に全力を注ぐ喜久雄の才能の方が早咲きだった。喜久雄と俊坊はそれぞれ自分にはないものを相手に認め、絶望するが憎み切れず、お互いにその才能と努力を認め合い歌舞伎に情熱をぶつけ合う。その二人のぶつかり合いは、劇中で演じられる歌舞伎の演目にも現れている。特に連獅子と曽根崎心中。演目のチョイスが良い。演目の内容は劇中ではあまり説明されていないので、どういう話なのかは軽くでも事前に知っていたほうが楽しめると思う。
・田中泯の演技が素晴らしい。万菊という女形で人間国宝になった人物を演じている。彼の舞台を観た喜久雄は「こんなもん女ちゃうわ。化け物や」と俊坊も「美しい化け物やで」と彼を評して言うシーンがある。万菊が手招きをするシーンがあるが手が美しい。手はネイルをするとかハンドケアするとか美しさを保つ方法は色々あるだろう。田中泯の手は枯れ木のように細くしわしわだが手の所作がとにかく綺麗でゾッする。ただ人を呼び寄せているだけなのに、何を呼んでいるのかと想像させる動きをしていた。
・喜久雄は壮年になるにつれ、どんどん“白”になっていく。物理的な白さではなく、芸に全てを注ぎ芸以外の全てを捨ててきた喜久雄は人の我が抜け落ちているかのようだった。目も光を失っており、芸をする器となったのだと思った。そんな喜久雄は雪のように美しいと思った。
・喜久雄はスキャンダラスな人生を送ってきた。とある人物が喜久雄の人生や行ないを非難しつつ彼の舞台に対し、「幕が開けると正月が来たような気分になる」と言ったのが忘れられない。私が無性に舞台に惹かれるのもおそらくそれを求めているからだと思った。演劇でもミュージカルでも歌舞伎でも、観ている時間は非日常を感じる。現実と地続きなはずなのに現実から切り離されて一時的に夢を見ている。舞台はポジティブもネガティブも含め特別な感情を与えてくれる。演じている人物がどんな背景・生活・性格をしていたとしても、舞台を挟めば観客はその人の磨き上げた芸をただ観る。特に歌舞伎は決まった形があり、その形の中で役者が何かを見出していくのが魅力なのだと思う。(私は歌舞伎は片手で数えられるほどしか観たことがなく見比べるまで行っていないのだが) とある人物が喜久雄たちの芸を観ながら「ああは成れないよな」と言うシーンがあるがこの映画を観ている人を代弁したセリフだなと思った。自分たちが生活を送るなか、芸を磨く人たちの舞台だからこそ魅せられる光景なのではないかと思う。
・舞台が人を輝かせるといのはあると思う。喜久雄が温泉場の食事会場や宴会場の舞台に上がるシーンがあるのだが、芸は同じはずなのに観客に与える感情は異なる。歌舞伎を演じる由緒正しい場で、それを目当てにする観客がいるからこそ喜久雄は輝くのだと思った。
・上映が終わり劇場を出ると少し景色が美しく見えた。人の感情のぶつかり合いや、人がなぜ演じるのか、ひとつのことに心血を注ぐのか、それになぜ惹かれるのかということが映画に詰まっていた。歌舞伎、もっと観たいです。